話の肖像画

前衛芸術家・篠原有司男(2) モヒカンでメディアの寵児に

自宅アパート近くの空き地がアトリエ。モヒカン刈りの頭で制作した=昭和33年、東京・荻窪 (「週刊サンケイ」から)
自宅アパート近くの空き地がアトリエ。モヒカン刈りの頭で制作した=昭和33年、東京・荻窪 (「週刊サンケイ」から)

 〈東京都心に生まれ、子供のころから西洋美術に興味を持つ。美大出身の母親の影響が大きかった〉

 生まれたのは今の東京の麹町にあった長屋だった。近くには大使館や作家の泉鏡花の家があり、高級住宅街だった。若いころのおやじは詩人を目指していたが、戦後は電電公社(現・NTT)で働いていた。おふくろは現在の女子美術大学日本画科を卒業していた。そのせいか、小学生のころから美術には自然に興味をもっていた。なにしろ、おふくろの嫁入り道具が30巻以上もある平凡社の「世界美術全集」だったんだから。「ゴッホは天才だね。おまえは絵描きになりなさい」と言われていた。僕にはそれしかない、という感じだったね。高校のときに画家を目指したのも、おふくろの存在が大きかった。

 〈東京芸大に合格したが、次第にアカデミックな教育に反発し、個性的な表現が芽生えていく〉

 おふくろの妹が首が長くて美人だったから、荻太郎という画家のモデルをしていた。その紹介で彼のところへ行き、東京芸大を目指して石膏(せっこう)デッサンをやった。当時、一番学費が安いのが東京芸大だった。1年浪人したんだけど、入試のときに参考作品として枯れたひまわりの絵を描いて持っていったら、あっさり合格した。