話の肖像画

作曲家・すぎやまこういち(3) ディレクター時代は「独裁者」

昭和40年の独立後はフリーの作曲家として活躍した (本人提供)
昭和40年の独立後はフリーの作曲家として活躍した (本人提供)

〈大学卒業後の昭和31年、文化放送に入社した〉

文化放送に就職したのは、音楽の仕事に携わりたかったからです。最初の1年は、記者もやりましたよ。デンスケ(録音機)を抱え、事件現場などを走り回りました。

〈33年には開局1年前のフジテレビに転籍。ディレクターとして音楽番組『ザ・ヒットパレード』を手掛けた。『カメラマンも照明も、全員が楽譜を読めないといけない』という考えの下、厳しく番組作りに臨んだ結果、『独裁者』の異名も付いた〉

それだけ番組作りに必死でしたし、一生懸命だったということです。生放送だったのも大きいです。僕は音楽に関しては、すごく頑固になりますから。

〈英国の有名歌手が同番組に出演した際、その歌手が『口パク』にこだわったため、すぎやまが『ゲット・アウト(出ていけ)!』と怒鳴ったこともあった〉

「イギリスの美空ひばり」と呼ばれた当時の売れっ子歌手でしたが、「口パクでしかやらない」と言うから。この番組の価値は生で歌うこと。僕は絶対に妥協できませんでしたので、帰ってもらいました。そうしたら、次の日の新聞各紙にこのことが書かれて、ちょっとした騒ぎになりました(笑)。

〈ディレクターとして番組を手掛ける一方で、作曲家としては40年の『ボンド小唄』でレコードデビュー。作曲活動を積極的に行い、『ザ・タイガース』の名付け親になるなど、当時のグループサウンズブームを支えた〉

当時はビートルズの全盛期でした。音楽のベースがクラシック音楽に近く、メロディーとハーモニー、バス(低音)の進行が一体となった曲を作っていたのが衝撃的でした。ある意味、世界のポピュラー音楽に大革命が起きていましたね。

その世界的な流れの中で、日本のグループサウンズは出てきました。しかし、当時はビートルズの音楽の神髄を理解できる作り手がまだ少なかったんです。「これではいかん」と思い、「ザ・タイガース」などに曲を提供しました。ただビートルズのまねをしたのではありません。メロディー、ハーモニー、バスの要素を備えた、いわば「音楽の原点」に立ち返ることを考えていました。

〈40年のフジテレビ退社後は、作曲活動に専念。ヴィレッジ・シンガーズの『亜麻色の髪の乙女』や、ザ・ピーナッツの『恋のフーガ』、ガロの『学生街の喫茶店』などを手掛けた〉

僕は昔から、パッと曲が突然浮かんで作曲するタイプ。「ホトトギス」の例えでいうなら、徳川家康の「鳴くまで待とう」ですね。曲が浮かぶのは、いつも本当に突然です。「亜麻色の髪の乙女」の場合には、車で移動している際に冒頭のメロディーがふっと浮かびました。慌てて車を止めて、メモ帳に書き留めましたね。

〈これまで手掛けたCM音楽は2千曲以上。他にも競馬のファンファーレ(東京・中山競馬場)など、なじみのある曲が多い〉

CM音楽の場合、忙しい時期には夜10時にCMのラッシュ(未編集のフィルム)を見て、翌日の朝10時までに作る、ということもありました。その場合、どうしても「ホトトギス」には鳴いてもらわないと困る。頑張って、鳴いてもらいましたよ。(聞き手 本間英士)

話の肖像画 すぎやまこういち氏