話の肖像画

作曲家・すぎやまこういち(2) 「耳学問」で音楽を学んだ

すぎやまこういちさん
すぎやまこういちさん

〈生まれは東京・下谷。家族全員が音楽好きという『音楽一家』で生まれ育った〉

小さいころは、祖母が歌う英語の賛美歌を子守歌代わりに聞いて育ちました。チンドン屋も大好きでしたね。うれしくなって彼らについていってしまい、気がついたら迷子になっていた-なんてこともありました。両親ともに音楽が好きで、楽譜の読み方は両親に教えてもらいました。オーケストラ音楽に触れたきっかけはラジオです。すぐに大好きになり、小学校ではクラスでコーラス隊を作り、指揮をしていました。

そのころから、指揮者への憧れが芽生えていましたね。中学校の入試面接のときに、僕は「オーケストラの指揮者になりたい」と言ったんです。当時は戦時中のことですから、周りのみんなは「陸軍大将になりたい」などと言ってました。僕は相当な変わり種扱いでした。初めて作曲をしたのは、中学3年のときです。教科書に載っていた「山のあなた」という詩にメロディーを付けました。それを家族で合唱したりしたのが懐かしいですね。

僕の場合、曲作りの勉強は「独学」です。一番の基本になったのは、ベートーベンの交響曲第6、7番のレコード。父がうちに残っていた反物をレコード店に持っていき、物々交換で手に入れてくれました。付いてきたオーケストラスコアを見つつ、レコードがすり切れるほど聞きました。ですから、僕の場合は音楽理論を学んでどうのこうの、じゃない。いわば「耳学問」なんですね。中学校のときにクラシック音楽のレコードを夢中になって聞いた経験や、東京・日比谷公会堂で聞いた日本交響楽団(現在のNHK交響楽団の前身)の演奏などが、その後の自分にとって大きな財産になりました。

〈大分や岐阜での疎開も経験。その後東京に戻り、生死の境をさまようほどの栄養失調を経験する。昭和24年には、東京・成蹊高校に進学する〉

高校に進学してから僕が真っ先にやったことは、「音楽部」の創設です。高校3年の時には、休止状態だったオーケストラを復活させるため、メンバーを募集しました。そのとき、成蹊中学の3年生に「トランペットがうまいやつ」がいると聞き、強引に連れてきたのが後の作曲家、服部克久です。これがきっかけで、彼とは一緒にジャズコンボを結成し、「オン・ザ・サニーサイド・オブ・ザ・ストリート」などを演奏しました。このときの経験は、後にポップスを作曲する際に役立ちましたね。

同じころ、初めてまとまった曲を作りました。『子供のためのバレエ 迷子の青虫さん』という、バレエ音楽の曲です。これはその後もずっと再演され、昨年も再演されました。僕の作品第一号が、今も再演されている。ありがたいことです。

〈26年、東京大学理科II類に入学。当初は薬学を学んだが、後に教育心理学科に転向した〉

当時、ピアノは高根の花でしたので、僕はピアノが弾けなかったんです。本当は音楽大学に行きたかったのですが、泣く泣く諦めました。親からは『学費が安い公立しか駄目』といわれていたので、東大に進学しましたが、どうしても音楽への夢があきらめきれず、授業を抜け出して高校のオーケストラの指揮をする-という楽しい日々を送りました。もっとも、遊びすぎて1年留年してしまいましたが。(聞き手 本間英士)

 

会員限定記事会員サービス詳細