「将門は退(ひ)くに退けず、進むに進めず、進退窮(きわ)まった。しかし、自身を奮い立たせて兵たちの戦闘の陣固めを督励し、白刃を交えて合戦した。将門は幸いに追い風を受けて、射る矢は流れるように飛び、思うように命中した」(「坂東市本将門記」現代語訳)
935(承平5)年2月、平将門は、源扶(たすく)とその弟らに常陸国野本(茨城県筑西市)で待ち伏せされ、襲撃を受けるが、撃退。扶と弟の隆、繁らは討ち死にした。将門はその後、扶兄弟の父、源護(まもる)の本拠地、筑波山西麓を焼いて回った。伯父、平国香(くにか)も焼死させた。
京の貴族社会を震撼させた平将門の乱の発端は身内の抗争。日本最古の軍記物語「将門記」は、冒頭部分が失われており、一族抗争の経緯は不明だが、護と平真樹の領地争いに介入したことが発端との説や、将門が京で有力貴族、藤原忠平に仕えた後、帰郷すると父の遺領が伯父らに横領されたとの説がある。「将門記」には一族不和の原因を「女論」としており、婚姻関係をめぐる問題があったのかもしれない。