【鹿間孝一のなにわ逍遙】オールジャパンだった1970年大阪万博(1/3ページ) - 産経ニュース

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鹿間孝一のなにわ逍遙

オールジャパンだった1970年大阪万博

 2025年に大阪での開催を目指す国際博覧会(万博)の誘致委員会会長に、経団連の榊原定征(さだゆき)会長が決まった。財界のリーダーを引っ張り出して、松井一郎大阪府知事は「心強い。これでオールジャパンの体制ができた」と誘致に自信をみせた。

 思い出すのは、1970年の大阪万博で、開催主体の日本万国博覧会協会の会長が、やはり経団連会長の石坂泰三(1886〜1975年)だったことである。

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 第一生命、東芝社長を歴任した石坂は、昭和31年に第2代経団連会長に就任する。固辞したが、労働運動が盛り上がった時代で、東芝で労使紛争を収めた手腕がかわれ火中の栗を拾わされた。

 以降12年間にわたって経団連会長を務めた。日本はちょうど高度経済成長時代。財界の発言力、影響力も大きく、なかでも硬骨で知られた石坂は政府にもズケズケとものを言った。

 経団連会長が「財界総理」「陰の総理」と呼ばれるのは石坂からである。

 その石坂に、日本で初めての万博を成功させたいと、当時の通産大臣、三木武夫が頭を下げた。

 「(行き場がなくなった)川の流れのように、その役が自分のところに回ってきた。あなたしかないと頼まれた以上、やってみるしかないではないか」

 城山三郎が「もう、きみには頼まない-石坂泰三の世界」(文春文庫)で、石坂の心境を書いている。

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 引き受けた以上、お飾りのつもりはなかった。

 政府の万博予算があまりに少なかったので、佐藤栄作首相に直談判して、要求の95%を認めさせた。