モローは生徒一人一人の資質を見抜き、才能を伸ばすよう仕向ける良き指導者だったという。マティスに対し「貴君は絵画を単純化していくでしょう」、ルオーに「貴君は荘重で簡素な芸術を愛し、その本質は宗教的」と語ったというのだから、ほぼ預言者だ。
モローの死後、ルオーは都市の底辺で生きる人々をありのまま、黒い輪郭線で力強く描いた。そして既存のサロンに対抗し1903年、マティスらと「サロン・ドートンヌ」を創設。そこから「フォーヴ(野獣派)」が生まれた。
この頃アフリカを旅したマティスが〈到底君の気に入るような場所ではないと思う〉と書き送れば、〈君の予想に反して、アルジェリアの話にはおおいに興味をそそられた〉とルオーも応じている。若い頃の手紙には共感とライバルならではの緊張感が交錯するが、第二次大戦中、特にナチス占領期には乏しい画材を融通したりと互いに励まし合っているのがわかる。
戦時下、ギリシャ生まれの気骨の出版人、テリアードが刊行した美しい芸術誌『ヴェルヴ』に、2人は芸術家としての矜持(きょうじ)を表す絵画を寄せた。マティスはこれぞフランスの美とばかり、豊かな色彩で堂々たる女性を表現した「ラ・フランス」を、ルオーは誇り高き救国の少女を描いた「聖ジャンヌ・ダルク」を。「テリアードが旗を振った、画家たちの美しきレジスタンスと言えます」と担当学芸員の富安玲子さんは語る。会場では「ラ・フランス」の貴重な原画とともに、ヴェルヴに掲載されたものとは別作品の「聖ジャンヌ・ダルク」を公開。また、テリアードが手掛けたルオーの詩画集『気晴らし』の原画である油彩全15点も今回、世界で初めて一挙展示されており見逃せない。