【ふるさとを語ろう-九州・山口人国記】サウンドファン社長・佐藤和則さん - 産経ニュース

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ふるさとを語ろう-九州・山口人国記

サウンドファン社長・佐藤和則さん

「ブルドーザーのとりこになった」と語る佐藤氏(伴龍二撮影)
「ブルドーザーのとりこになった」と語る佐藤氏(伴龍二撮影)

 ■貧しくも楽しかった戸畑の長屋

 難聴者が音声を聞き取ることができるバリアフリー型スピーカー「ミライスピーカー」という商品を製造、販売しています。蓄音機のスピーカーにヒントを得た商品ですが、重度の加齢性難聴で悩んでいた父親に、試作機で音を聞かせたところ「よく聞こえる」と喜ばれたので、「嘘じゃないよね」と何度も念を押して本格的な開発に乗り出したのです。

 その父はかつて、新日鉄八幡製鉄所に勤めていました。固まった鉄を曲げて形をつくる「冷延」という工程の電気設備技術者です。その関係で幼い頃は工場の戸畑門の近くに建つ、通称ハーモニカ長屋に住んでいました。煤煙(ばいえん)でくすんだ木造住宅がズラリと並び、一日外で過ごすと顔は真っ黒になったほどです。

 当時は若戸大橋が完成した頃で、周辺道路の整備も活発でした。最も印象に残っているのは、建設現場のおじさんが、ブルドーザーに乗せてくれたことです。色々な動き方をするのがとにかく新鮮で、一気にとりこになりました。その経験は車選びにも反映されています。昭和50年代半ばに運転免許を取得して以来、途切れることなく、四駆を乗り続けています。

 戸畑時代はどん底の貧乏生活を強いられていました。12人兄弟の3番目である父が、祖父に代わって下の弟妹らの面倒を見てていたのが理由です。ただ、長屋には同じような境遇の人々が住み生活は楽しかったですね。

 風向きが変わったのは小学校2年の時。北九州市八幡区(現八幡西区)の鉄竜という町に建てられた新築の社宅に引っ越してからです。

 しばらくして父はブラジル・ウジミナス製鉄所の立ち上げ要員としてプロジェクトに参画しました。昭和38年のことです。単身赴任期間は2年半に及び、その間は一度も帰国しませんでしたが、家計にゆとりが生じるようになりました。

 というのも日本できちんと給料が振り込まれたのに加えて、ブラジルではその1・5倍にも上る手当が支払われていたからです。その資金を活用して現地に家を建て、女性と一緒に暮らす人もいたようですが、父は真面目が取り柄。コツコツと貯金をしていました。

 私は5年生まで萩原小学校に通っていました。父が不在だったので、その責任感からか母はとても厳しかったですね。テストで悪い点数を取ったら叱られるので、山に穴を掘って答案用紙を埋めたこともあります。学校では器楽クラブに所属し、大太鼓や小太鼓を担当しました。「ペール・ギュント」などを演奏しましたが、かなりレベルが高かったですね。

 プラモデルも好きで、いったん作り始めると、完成させるまで食事もとらずに熱中しました。

 ブラジルから父が家に帰ってきたときのことは、はっきりと覚えています。

 顔を覚えていなかったので「どこのおじさん?」といった感覚でした。妹に至っては怖くて泣いていました。しばらくすると自動車やカラーテレビ、電子レンジがそろって、一気に中流以上の家庭となった次第です。

 5年生になると、君津製鉄所(千葉県)への転勤に伴って君津市に引っ越します。ですが、転校先の学校は6クラスのうち5クラスが九州出身の子供ばかり。残りの1クラスが地元出身です。地元なのに肩身が狭かったのでしょう、われわれに合わせて九州弁を使っていたほどです。ラーメンもトンコツ味だったように、飲食店も九州風の味付け。北九州にもちょくちょく帰省していたので、寂しさは感じませんでした。

 ミライスピーカーは金融機関の受付発券機の呼び出しや証券会社のセミナー、空港での搭乗案内などで、採用が着実に進んでいます。

 これから九州での普及に力を入れ、社会貢献を果たしていきたいですね。(伊藤俊祐)

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【プロフィル】佐藤和則

 さとう・かずのり 千葉県立木更津高校、中央大理工卒。富士ゼロックスやサン・マイクロシステムズなどを経て平成25年10月にサウンドファンを創業、現職。60歳。福岡県出身。