一筆多論

問われるのは棋士の矜持 森田景史

 将棋の盤面には10の30乗という途方もない可能性があるといわれる。「AIがプロの域に達するのは、まだ先のこと」。2000年前後の棋界には、そんな楽観があった。急激な進化がプロの読み筋を裏切ったのは周知の通りだ。プロと電脳棋士の優劣は、あと数年で話題にならなくなるともいわれる。

 かといって、筆者はプロの将来を悲観するものでもない。むしろ「勝負だけならジャンケンでいい」という羽生善治棋聖の言葉に深くうなずく。思い出すのは、升田幸三(第4代実力制名人)と大山康晴(十五世永世名人)が昭和50年2月に残した1局だ。

 〈観戦の棋士がふえ七、八人になった。升田が左を向いて「これは名局だ」と言った。(中略)大山が「名曲鑑賞の夕べか」と茶化して笑わせた〉(東公平著『名人は幻を見た』)

 他にも、「ほんとに、ゼニになる将棋いう感じやなア」(大山)「寄せをやり損のうとるよ。あとは闘志で指した」(升田)など言葉に味がある。

 人知の及ばぬ棋理の空白は、AIが埋めてくれるかもしれない。将棋にはしかし、「棋は対話なり」の格言がある。眉を八の字にし、額にしわを刻み、髪をかきむしり、うめく。人と人が指してこそ生まれる名局や物語が、盤上の余白には眠っている。

 今は亡き升田は警句の名人でもあった。「難局は、これ良師なり」はその一つだ。盤上から数ある人生の情理をつまみ、後世に伝える。AIにはできない名人芸だろう。羽生棋聖は最近のインタビューで「棋士の個性が問われる時代」と述べた。「個性」を「矜持(きょうじ)」と置き換えてもいい。棋士が棋士であるゆえんは、その2文字だと思う。(論説委員)

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