美術品のなかには、うぶであるはずなのに、なぜかそのなかに妖しさを秘めていて、そこに引き込まれるように見つめてしまうというものが存在する。先日、神戸市中央区の兵庫県立美術館で見た「アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁(ページ)の王国」(http://www.artm.pref.hyogo.jp/)には、そうした作品が数々、並んでいたのである。
額縁のなかを遠くからのぞいていると、その絵は「もっと近くに寄ってこい」とささやく。歩を進めてゆくと、鉛筆で引かれたあまたの線、平面と遠近法を使った空間が混在し、視覚がまどわされてしまうような世界が目の前に出現する。
余白がない。
そこには画家が何かを表現しようとしたのだろう文字や、あるいはでたらめなように並ぶ音符で埋まっていたりする。
そのうえで、さらにじっと目をこらしてゆくと、今度は三半規管がやられたようなめまいがしてくるのである。ところが、不思議なことにそれでもなお、絵から目が離せない。
この展示は、そうした不思議な時間がしばらく続いていくのだ。
きっと、ここに出ている74点の作品のもつ力に酔ってしまっていたに違いない。
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そのような不思議な絵を描いたのは、どういう人物だったのか。
アドルフ・ヴェルフリ(1864~1930年)は、スイスの首都ベルン近郊の貧しい家庭に7人兄弟の末っ子として生まれた。
父は酒癖の悪い石切工で犯罪に手を染めて牢屋に押し込められることもしばしば。おかげで母は洗濯婦などとして働いたが、結局は幼いころに一家離散の憂き目にあった。
ヴェルフリは農家などを転々としながら働く。そのうち女性と恋仲になったりもするのだが、その都度、社会階級の違いなどで、周囲に引き裂かれていった。
26歳のとき、少女に対して2度の性的暴行未遂を起こして刑務所へ。さらにその後、31歳のときには3歳半の女の子への性的虐待未遂でつかまり、精神鑑定を受けた結果、統合失調症との診断を受け、精神科の病院に収容されることとなった。