入門・日米戦争どっちが悪い(6)

「真珠湾」事前に知っていたルーズベルト 現地に教えず見殺し

わが国はやむなく、1941(昭和16)年12月8日(現地時間7日)、ハワイの米海軍基地を攻撃(真珠湾攻撃)。米国、英国など連合国を相手に戦争に突入しました。平和を願ってぎりぎりまで努力を続けた昭和天皇は、開戦の詔書に「豈(あに)朕(ちん)カ志ナラムヤ」(このような事態は私の本意ではない)と書き加えるようご下命になりました。12日の閣議で戦争の名称を、進行中の支那事変も含めて大東亜戦争と決めました。

「日本に1発目を撃たせろ」

米大統領フランクリン・ルーズベルトは1940年10月8日の段階で、海軍大将ジェームズ・リチャードソンに対し「遅かれ早かれ、やつら(日本)は過ちを犯し、そしてわれわれは戦争に突入することになる」と語っていました。

陸軍長官ヘンリー・スチムソンの日記によると、ハル・ノートがわが国に通告される前日の1941年11月25日、関係閣僚と軍幹部による戦争閣議でルーズベルトは「米国はたぶん次の月曜日(12月1日)に攻撃を受ける可能性がある」と発言。「われわれ自身が過大な危険にさらされないで、最初の一弾を撃たせるような立場に、日本をいかにして誘導していくべきか」が話し合われました。

わが国の命運を左右する謀議を行ったその夜、ルーズベルトは浮かれていました。ホワイトハウスにノルウェーのマッタ皇太子妃を招き、夕食を共にしました。マッタ妃はナチス・ドイツの侵攻から逃れて米国に滞在し、英国にいたオーラブ皇太子とは離れて暮らしていたのです。

当時40歳で美貌のマッタ妃に59歳のルーズベルトは恋愛感情を抱いていました。ルーズベルトの妻エレノアはこの日、ニューヨークに出掛けて留守。ホワイトハウスの記録によると、マッタ妃は午後7時半から翌日午前0時15分までホワイトハウスにいました。

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