維新伝心150年

維新へ人材育てた佐賀藩・枝吉神陽

 ■吉田松陰も一目置いた迫力の巨漢

 幕末の佐賀藩に枝吉神陽(えだよし・しんよう)(1822~1862)という学者がいた。身長1間(約180センチ)の大男で、声を上げれば建具が震えた。1日20里(約80キロ)を歩き、げた履きで富士山に登る-。学者のイメージからはほど遠い。門下生の多くが維新後に活躍したことから、「佐賀の吉田松陰」とも呼ばれる。だが、その人間的スケールや影響力は、松陰に勝るとも劣らない。

 神陽は熱烈な尊皇思想の持ち主だった。わが国に君主は天皇ただ一人であり、そのほかに君臣関係は成立しないという「日本一君論」を唱えた。

 幕府と大名、そして藩主と藩士の主従関係が絶対だった時代だ。神陽の考えは「危険思想」といえた。

 枝吉家では父の南濠(なんごう)や曾祖父、種郷(たねさと)も、こうした思想に傾倒した。枝吉家のルーツが影響したのかもしれない。

 枝吉家は、古代に大陸から渡来した「大蔵氏」の一族とされる。日本に来てから、朝廷に仕え、国庫「大蔵」を管理し、それを氏族名とした。一部は九州に土着した。後に原田、秋月、日田氏などは大蔵姓を称した。枝吉氏もその一つだ。

 「天皇から大蔵姓を賜(たまわ)った」。天皇に直接仕えた一族という意識が強かったのだろう。神陽が「一君論」を掲げたのは自然だった。

 ◆俊英を論破

 神陽は藩校、弘道館で学んだ後、23歳で江戸に向かった。わが国を代表する教育機関、昌平黌(しょうへいこう)に入学するためだった。

 昌平黌は幕府直轄だ。そこで神陽は、幕藩体制の否定につながる「一君論」を展開した。

 「わが国は、神の子孫である天皇が治めることが道理だ。武家は天皇の下で外敵征伐が役割だ。天下を治め、対外的に『君主』として振る舞うことは決して許されない!」

 全国から集まった優秀な学生は、色をなして神陽に反論した。

 神陽は「日本書紀」など、日本の古典(国典)の知識を駆使し、反論を退けた。久留米藩士の広瀬光は「博学多才の人物で、特に朝廷の儀式や制度について詳しさは群を抜く」と絶賛した。

 神陽の影響で、国典の研究をする学生が相次いだ。

 嘉永2(1849)年、神陽は佐賀に戻り、弘道館の教諭となった。

 翌年神陽は、藩内に南北朝時代の武将、楠木正成・正行(まさつら)親子の像があることを知った。正成は後醍醐天皇に類まれな忠義を示した。どんな苦境にあっても、どれだけ献策が退けられても、揺るがなかった。

 神陽は正成を敬慕していた。早速、親子を顕彰する「義祭同盟」を結成した。

 この同盟から、後の日本を動かす人材が育った。

 神陽の実弟・次郎(後に副島家の養子となり副島種臣(たねおみ)、1828~1905)、いとこで北海道開拓に功績を残した島義勇(1822~1874)、初代文部卿(大臣)などを歴任した大木喬任(たかとう)(1832~1899)、そして大隈重信(1838~1922)らだ。

 神陽がリードする義祭同盟の議論は、自然と「尊皇倒幕」に向かった。長州藩の吉田松陰に会ったのもこの頃だ。

 一面識のみにて悉(くわ)しくは存じ申さず候えども、奇男子と存じ奉り候-。松陰は8歳年上の神陽を、世にも珍しい大人物「奇男子」と評した。

 ◆守るための謹慎

 幕末、多くの藩で「倒幕」「佐幕」両派の主導権争いがあった。長州藩のように内紛となり、藩内で血を流すケースも多かった。

 だが、佐賀藩は違った。第10代藩主、鍋島直正(閑叟(かんそう)、1814~1871)の存在が大きかった。

 直正は開明的で寛容な人物だった。

 幕府による反対派の弾圧「安政の大獄」(1858~1859)に際して、直正は、倒幕派の筆頭であり藩外に名も知れた神陽らをかばった。

 実は神陽はこの頃、倒幕の行動を起こしていた。

 弟の副島を京都に送った。尊王攘夷派の公家、大原重徳に「徳川氏への将軍宣下を廃して、政権を朝廷に戻すべきだ」との私論を伝えさせた。

 それを知った直正は、副島に謹慎を命じただけだった。しかも神陽に「謹慎処分は(幕府の手から)種臣を守るためだ」「時局が大きく変わろうとする中、法を犯さない限りは咎(とが)めない」と伝えた。

 副島は後年、「直正公の姿勢があったからこそ、藩士の暴発的な行動が避けられ、藩の団結が保たれた」と振り返った。

 時代が沸騰する中で、文久2(1862)年、コレラが大流行した。当時は、わずか数日で死に至る病だった。

 神陽の妻がコレラにかかる。神陽は看病をし、亡くなると葬儀を取り仕切った。優しい夫だった。

 コレラは感染症だ。神陽も罹患(りかん)した。

 9月8日、神陽は亡くなった。悲願とした「大政奉還」の5年前だった。

 神陽の意志は門下生が引き継ぐ。筆頭はもちろん、実弟の副島種臣だった。

 ◆兄譲りの肝っ玉

 明治元(1868)年1月、長崎港は騒然としていた。

 幕府の長崎奉行が、戊辰戦争勃発の知らせを聞くや否や、逃走したからだ。列強各国は、幕府と新政府による内戦をにらみながら、利権拡大を狙った。

 列強の動きに、副島種臣が待ったを掛けた。

 佐賀藩は長年、長崎港の警備を担っていた。副島本人も、長崎にいたことがあり、語学も堪能だった。

 「新政府の官吏が着任するまで、この港はわれわれが管理する。関税も、これまでと同様に納めることを求める」

 副島は欧米各国の外交官にこう告げた。

 だが、各国とも曖昧な態度を取った。最も露骨だったのはフランスだった。

 フランスは軍事顧問団を送り込むなど、幕府へ肩入れしていた。新政府側に立つ副島に従う義理はない。

 「貿易は続ける。だが、関税について、本国からの指示があるまで従うことはできない」

 フランスの外交官は、副島の要求を突っぱねようとした。

 どれだけ恫喝(どうかつ)されても、副島は怖くなかった。何しろ、もっと怖い目にあっている。

 兄・神陽の生前、こんなことがあった。

 「兄さんの言うとおりに行動すれば、他人からどのように見られるか…」。副島の言葉に、神陽の血相が変わった。

 「人からあれこれ言われることに執着するとは、どういうことか! 今まで何を学んできたのか。今すぐ学問をやめてしまえ!」

 声を上げれば建具が震えるといわれた神陽だ。副島は震え上がった。

 副島は晩年、「今でも忘れられない。人生で最も怖かった経験だ」と語った。

 あの兄に比べれば、フランス人など…。副島がひるむ理由はなかった。

 「われわれが管理する長崎港では、貿易をしないという理解でよいか?」

 副島は、神陽から徹底的に叩(たた)き込まれた国典、中でも法令解釈「令義解(りょうのぎげ)」の知識と、欧米の最先端の学問を駆使し、反論した。

 副島は佐賀藩が長崎に設立した英学校「致遠館」に通った。ここでオランダ出身の宣教師で法学者のフルベッキから、アメリカ合衆国憲法を学んだ。国際法の解説書「万国公法」も贈られた。神陽直伝の肝っ玉を、古今東西の法律理論で武装した副島に、フランスの外交官は従うほかなかった。

 神戸でも同様の問題を解決し、副島の名は高まった。

 明治元年3月、副島は維新政府参与、制度事務局判事に任命された。土佐藩出身の福岡孝弟(たかちか)とともに、新政府の具体的な機構づくりという大役を任された。

 「国民の苦難を救う事業を成し遂げるには、歴史の蓄積から基礎を築かなければならない。法律や経済の知識だけでは心許ない」

 福岡と副島は頭をかきむしりながら、知識を総動員し作業にあたった。

 明治元年6月、「政体書」が発表された。

 政府のトップを太政官とし、その下に立法をつかさどる議政官、行政機関の5官、司法の刑法官を置くものだった。

 立法官と行政官の兼職を禁止した。各官は公選とし、4年の任期を設けた。

 古代の律令制度を下敷きに、アメリカ憲法から「三権分立」のエッセンスを取り込んだものだった。

 この政体書で示した政府機構は、翌明治2年の「職員令」で大きく改変される。官の公選制や任期制は消えた。

 副島の無念を伝える文言はないが、一瞬とはいえ、明治初年の日本に「三権分立」は確かに存在した。近代国家への脱皮を目指した副島らの功績は大きい。

                   ◇

 将軍、徳川慶喜が朝廷に政権を返上した大政奉還(1867年)から今年、150年を迎える。激動の幕末・維新にあって、九州・山口の多くの人物が歴史に足跡を残した。そうした人物の行動と業績を探る。

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