≪念頭になかった作家活動≫
妻につらく当たりもした漱石だが、一妻主義で優しい面もあった。明治29年6月に鏡子と結婚し熊本で暮らしたころ、看護して徹夜したこともある。
〈枕辺や星別れんとする晨(あした)〉
産婆が間に合わず、漱石が寒天のようにぷりぷりしたものをあわててとりあげた。
〈安々と海鼠(なまこ)の如き子を生めり〉
歳末にこんな句を詠んだ。
〈行年(ゆくとし)を妻炊(かし)ぎけり粟の飯〉
翌30年の歳末にはこう詠んだ。
〈行く年や猫うづくまる膝の上〉
月並みな句だが、それが暦に印刷されるのは、出世作『吾輩は猫である』との連想のせいだろう。
昨今は日本一の作家といわれる漱石だが、自然主義全盛期には「女を知らないから女が描けない」とけなされた。
早稲田派が文壇を制し、改造社が現代日本文学全集を出す際、早稲田の文学部をつくった坪内逍遥には一巻500頁(ページ)を割り当てたが、慶応の福沢諭吉には3頁だった。かくて『福翁自伝』は文学外に追いやられた。