九州の礎を築いた群像

霧島酒造編(3)創業と守成

江夏吉助氏が焼酎造りを始めたころの様子
江夏吉助氏が焼酎造りを始めたころの様子

 ■酢造の汚名そそげ 「一日中 焼酎のことだけ考えている」

 「これが私の爺(じい)様の江夏吉助(きちすけ)。目元は私にそっくりでしょ。剛胆(ごうたん)な性格も似ているんですよ」

 霧島酒造専務の江夏拓三(67)は、「宣伝マン」として全国を講演に飛び回る。つかみには必ず、江夏家の来歴を話す。吉助(1876~1944)とは、霧島酒造の創業者その人だ。

 江夏の本家は江戸時代以来、宮崎・都城でしょうゆ醸造業を営んできた。現在のヤマエ食品工業につながる。そのルーツは、大陸にある。

 江戸時代の1643(寛永20)年。中国大陸から、ある一家が都城に移住した。主は日本で江夏七官(しちかん)を名乗った。吉助から数えて、15代前の人物だ。

 当時、明朝末期の混乱を避けるように、多くの人が大陸を逃げだし、日本にやってきた。都城にも、そうした人々が住む唐人町があった。

 七官らは、塩の商売を始めた。高い医療技術も持っていたらしい。徐々に周りの信を得て、ときの権力者に引き立てられた。今で言えば「華僑」だろう。

 明治になると、江夏一家は宮崎県内で主に食品などの商売を手がけた。

 その江夏家に生まれた吉助は、小学校も出ておらず、読み書きそろばんは、大の苦手だった。ただ、向こう意気は強かった。十代で早くも、企業家として身を立てようと決意した。

 16歳のころ養蚕業を始めた。しかし、商売は甘くない。やがて行き詰まった。

 吉助は都城の川東地区で再出発を図った。「川東江夏商店」を設立し、本家のみそやしょうゆを売る問屋を営んだ。

 その後、鹿児島・阿久根から取り寄せた焼酎の販売を始めた。予想以上に売れた。

 「よし、本場の鹿児島に見習って自社で焼酎を造ってみよう。必ず売れるはずだ」

 大正5(1916)年、吉助は焼酎造りを始めた。霧島酒造の創業だった。

 苦難は続く。焼酎造りを始めた直後、工場のボイラーから出火し、工場と住まいを失った。

 だが、江夏家は異国の地にあって、助け合ってきた一族だ。失意の吉助に援助の手を差し伸べた。吉助のタフな性格もあった。

 そのうち吉助はある発意を得た。「霧島」の商品名だった。

 霧島連山にあやかった名前だ。天に向かってそびえる力強さや、豊かな自然、そして「天孫降臨の地」というイメージを与える。焼酎の銘柄としてうってつけだった。

 吉助は昭和8年8月、「霧島」を商標登録した。

 その霧島を、息子の順吉(1915~1996)が引き継ぐ。

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 順吉は秀才の誉れ高く、鹿児島県にあった旧制第七高等学校(現・鹿児島大学)から東京帝国大(現・東大)に進む。工学部応用化学科で学んだ。

 昭和14年に卒業後、三池石油合成(福岡県大牟田市)の研究者になる。同社は日本の石油化学工業の先駆けだった。

 戦時中、いったん陸軍に召集され、千葉県習志野市や大牟田にあった戦車隊に配属された。

 その後、戦況悪化に伴い石油不足に悩んだ軍は、石炭から代替石油を作り出す「人造石油」プロジェクトに乗り出す。優秀な研究者だった順吉は、三池石油合成に戻り、このプロジェクトに携わることになった。そこで終戦を迎えた。

 順吉は都城の実家に呼び戻された。19年に吉助が他界し、社内は混乱していた。後継者が必要だった。

 そのころ、霧島酒造の焼酎は、酸味が強くまずかった。「霧島酢造だ」と揶揄(やゆ)された。原料のサツマイモの品質が悪く、設備が旧式なためだった。

 焼酎など蒸留酒は、醸造酒を加熱して、気化したエタノール(アルコール)を集め、冷却して液体に戻す。結果、よりアルコール度数の高い酒ができる。

 「酒を焼く」と呼ばれる蒸留工程を1回経た焼酎を「乙類」と、複数回のものは「甲類」と呼ばれた。

 このころ、大麦やサトウキビなどを用いた甲類焼酎が大量生産されていた。糖分を含むサトウキビの場合、芋と違って原料を糖化する工程が不要だ。原料そのものも安い。その分、安価だった。しかも、繰り返し蒸留を行うことで、アルコール度数は高まる。

 戦後の混乱期。人々は、より安く、手っ取り早く酔える酒を求めた。

 だが、順吉は乙類にこだわった。蒸留回数が少ないだけに、アルコール以外の香味成分が味わえるからだ。

 「何より大事なのは風味だ。私は乙類に誇りがある。地場産の芋で良質な焼酎を造るしかない」

 順吉は研究者として生きてきた。口数は少ない。だが、焼酎にかける思いは熱かった。

 酢造という汚名をそそがなければならない。「品質が良ければ売れる。品質改善に生涯をかけよう」。こう決意した。

 昭和24年4月、「霧島酒造株式会社」を設立し、社長に就任した。そして、型破りな行動に出た。「杜氏(とうじ)」の廃止だった。

 日本酒や焼酎は古来、酒造りのプロ集団である杜氏の勘と経験に頼っていた。蔵元は杜氏集団に、酒造りを依頼する。杜氏集団は門外不出の技術を駆使し、蔵元の要請に応える。

 霧島酒造は、遠く薩摩半島にある黒瀬地区(現・南さつま市)の杜氏を招いていた。

 原材料にどんな麹と酵母を掛け合わせると、どんな味や香りができあがるのか-。焼酎造りの中核技術は、杜氏だけが知っていた。

 順吉は社長就任後、何年かして、杜氏廃止を打ち出した。周囲はあっけにとられた。

 応用化学の専門家である順吉には、成算があった。

 「焼酎造りは決して難しくはない。われわれでもやれる。難しいのは、おいしいものを大量に造ることだ」

 間近で杜氏による焼酎造りを見続けた結果、こう確信した。

 「均質の焼酎を大量に、しかも安定して造るには、目的の味を作れる社員を自前で育てた方がよい」。こう社内を説得した。

 順吉は早速、試験室を作った。用意した顕微鏡で麹や酵母を分析した。杜氏の手順を率先して社員に伝えた。

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 順吉は品質向上に加え、ある一手を打った。

 乙類こそ、素材の味を生かす焼酎だと自負していた。だが「甲」に比べ、「乙」には、劣るというイメージがつきまとう。

 順吉は32年、九州各県の酒造組合でつくる「九州旧式焼酎協議会」(現・九州本格焼酎協議会)で、「乙類焼酎」を「本格焼酎」と表示するよう提案した。

 大蔵省にも何度も陳情した。その甲斐(かい)もあり、法規則も改正され、「本格焼酎」という呼称の表記が可能になった。本格焼酎の消費量は、右肩上がりで増えた。

 順吉は自社の製造設備の改善にも乗り出した。工場の製造現場を歩き回り、社員に話しかけては改善点を探した。

 父の吉助が残した工場の蒸留装置は、どれも旧式だった。元来、機械いじりが好きなだけに、気付けばすぐに自ら図面を書いた。鉄工所に持ち込み、試作品を作った。

 特に蒸留器は、改良を続けた。

 47年、楕円(だえん)型の筒の形をした蒸留装置を新たに考案した。それは「江夏式蒸留器」と呼ばれ、現在もその改良型が使われている。

 50年ごろになると、順吉は、社長室よりも工場の貯蔵タンク群の突き当たりにある木造の「検定室」にこもることが多くなった。

 焼酎は、貯蔵タンクにある異なる風味の「原酒」を掛け合わせ、味を調整する。このブレンド工程が、味を左右する。順吉は、自分の舌を信じ、最適なブレンドを追求した。

 「ブレンドがうまくいかなければ、目的の味は決してできない」。昭和60年。検定室で順吉は、助手役の奥野博紀(55)(現・品質保証部部長)に語り掛けた。奥野は入社間もない若者だった。

 順吉は毎朝9時、検定室にやってきた。身なりは質素だった。どのタンクにどんな原酒が入っているか、全てを覚えていた。

 「よし、これとあのタンク(の原酒)でブレンドしよう。奥野君、サンプルを持ってきてくれんな?」

 机に置かれた黒いゴムシートにチョークでタンクの番号を書き、ブレンドする割合を記す。

 奥野ははしごで高さ9メートルのタンクに上がり、原酒をくみ上げ、順吉の指示通りにビーカーで混ぜた。

 通常、酒造りの現場で試飲する際は、口に含んで味や香りを確かめると、すぐにはき出す。ところが順吉は一口一口、飲み込んだ。そのせいで、すぐに赤ら顔になった。

 「この渋みさえなければ、甘みと芋らしいうまみと、丸みとを兼ねた酒質になるんだがね…」

 雑味や渋みをできるだけ抑えるブレンドを追い求めた。そのデータは紙にまとめた。順吉は焼酎の風味の微妙な違いが分かるブレンダーを育てようと懸命だった。

 順吉はとにかく、仕事に厳しかった。

 「ぼくは寝るまで一日中、焼酎のことだけ考えている。明日はこうブレンドしようとかね。それくらいしないと、おいしい焼酎なんてできない。あんたはどうな」

 こう言われた奥野は、冷や汗が出る思いだった。

 寄る年波には勝てず、順吉は体調を崩し、入退院を繰り返すようになった。それでも奥野を自宅に呼び、ブレンドの指示を出した。

 奥野は言われた通りにブレンドし、二合瓶(360ミリリットル)に入れて、持ってきた。

 「焼酎は身体で造れ。頭で造れ。心で造れ。和で造れ」。奥野は、そうたたき込まれた。

 順吉は平成8年、80歳で亡くなった。その1年前まで究極のブレンドを追い求め、奥野に指示し続けた。父・吉助がつくった事業を守り、成長の軌道に乗せる。「守成」にささげた一生だった。 (敬称略)

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