オリンピズム

1964東京(11)円谷幸吉を抜き去ったヒートリーの娘と英ローカル線の邂逅

 円谷は東京五輪の4年後、「幸吉は、もうすっかり疲れ切って走れません」の遺書を残し、亡くなった。アベベもメキシコ五輪の翌年、自動車事故で下半身不随となり、1973年に脳出血のため41歳の若さで急死した。

 その話になるとルスは「ええ、それも聞いています。とくにツブラヤは自分の最大のライバルだったし、とても悲しい思いだったと言っていました」と話した。

 東京五輪の年に生まれたルスは「チャンスがあったら、私も日本に行ってみたい」と言い残し、小さな駅のプラットホームに姿を消した。

 以上の逸話は、85年3月6日の夕刊フジに、ルスの可憐(かれん)な写真を添えて萩原が書いている。後でヒートリー自身に電話で確かめると、あの日、ルスは列車で会った日本人記者のことを、興奮した口調で父に報告したのだという。

 ヒートリーは東京五輪後、何度も来日した。一昨年には円谷の故郷、福島県須賀川市を訪れた。円谷の兄、喜久造とともに円谷の墓に花と線香を供え、円谷が好きだったまんじゅうを食べた。そして、「なぜ表彰台で、円谷さんと話さなかったのだろう。ゆっくり話す時間があれば」と悔やんだのだという。

 萩原はすでに新聞社を離れ、フリーのフォトジャーナリストとして活躍している。世界を飛び回って子供の笑顔を写したカレンダー「地球こども紀行」は、2017年版で26年目となる。(別府育郎)