歴史のささやき

弥生女性は超ミニだった!?

中国・雲南省の基諾族の女性。中国のはがきにその写真があった
中国・雲南省の基諾族の女性。中国のはがきにその写真があった

 □西南学院大学名誉教授・高倉洋彰氏

 卑弥呼や邪馬台国に触れた「魏志倭人伝」は、3分の1を弥生人の生活習慣(習俗)の紹介に費やしている。この習俗は、かなりの部分を、発掘調査で得られた資料と対照できる。それによると、習俗に関する記事の内容はかなり正しい。しかし、弥生人の衣服については、怪しい。

 倭人伝は男女の衣服について、男子の衣は横側を結ぶだけで縫うことはほとんどない。女子は単衣のようなもので、中央に穴を開け、そこから顔を出している、としている。

 これを基に、古代の織物研究で知られる角山幸洋氏は、男子はお坊さんの袈裟(けさ)のような袈裟衣、女子は戦後の女性が着ていた簡単衣のような貫頭衣だった、としている。これが教科書にも採用されている。

 この復元された衣服には、疑問がある。

 まず袖を縫い付けた上衣(じょうい)が出土している。さらに古墳時代の埴輪(はにわ)を見ると、袈裟衣は女性、ことに巫女(みこ)の衣服だと考えられるからだ。

 埴輪の衣装を見ると、男女ともに上衣は同じで、筒袖で前開きのワイシャツ状のものを着ているが、襟はない。下衣(かい)については男子はズボン、女子はスカートをはいている。これとよく似た衣服は今でも、中国・雲南省の基諾(ジノー)族や景頗(ジンポー)族、●(ワ)族などの少数民族に見られる。

 埴輪と少数民族の例からみて、弥生人は男女ともに襟のないワイシャツ風の上衣を着ていたとみて間違いない。縄文時代の女性をかたどった土偶も同じような上衣を着ている。

 下衣は、男子はズボンであろう。女性はどうだろうか。貴婦人風の埴輪は、織布を縦にしたスカートを着けている。巫女とみられる埴輪は、上衣の袈裟衣のみで、下衣は表現されていない。下半身を露出しているものもある。

 参考に、基諾族などを見ると、織り上げた布を横向きに腰に巻き付けた巻きスカートを身に着けている。それを描写すると、倭人伝の男子の衣服になる。その巻きスカートは、かつては超ミニで、下半身は露出状態だった。これからみても、弥生時代の一般の女性は超ミニ状の巻きスカートだった可能性がある。

 雲南省と日本とでは比較に無理がある、という意見もあろう。では、成人式や大学の卒業式を彩る若い女性の和服はどうだろう。

 今では必要なときに借りることができるが、専門店で買うとすれば、それは呉服屋さんになる。この呉服の「呉」は、現在の中国・上海を含む江南地方一帯の地名である。つまり、呉服は中国服を意味する。和服が中国服?

 実は、和服は中国の呉地方の衣服が古墳時代に伝わり、以後、独自の進化を遂げて現在のようになった。「呉服」の名称は、その名残である。

 中国服というと、チャイナドレスを想像しがちだが、あれは清王朝を支配した満州族の民族衣装が発展したものだ。『三国志』などの中国の古典の映画を見ると、和服と同じような衣服を着ているから、確かめられるとよい。

 発掘された呉の衣服をみると、まさに呉服を着ており、げたを履いている。2011(平成23)年に来日された「幸福の国」のブータン国王夫妻が着ておられた服装を覚えている方もあろう。ブータンの正装は「ゴー」を着用し、げたを履く。ゴーは、日本のドテラ(褞袍)や丹前(たんぜん)をスマートにしたようなものだ。和服とゴーに直接の関係はないのだが、呉服とげたの文化が、呉の周辺に拡散して日本やブータンで定着し、現代まで伝わっていることを意味している。

 弥生の衣服にも同じような現象があったのだろう。文化は広い視野で見る必要がある。

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【プロフィル】高倉洋彰

 昭和18年福岡県生まれ。49年に九州大大学院終了後、福岡県教育委員会、県立九州歴史資料館を経て、平成2年から西南学院大教授。弥生時代の遺跡や大宰府のほか、アジアの考古学など幅広く研究。「弥生時代社会の研究」、「行動する考古学」など著書多数。九州国立博物館の誘致にも尽力した。26年3月に西南学院大を退職し、現在名誉教授。前日本考古学協会会長。観世音寺(福岡県太宰府市)住職も務める。

●=にんべんに瓦

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