月刊正論1月号

三笠宮崇仁親王殿下は男系を守ろうとされた 作家・竹田恒泰

「赤い宮様」と呼ばれたが…

 昭和三十年代に、二月十一日を「神武天皇ご即位の日」としてかつての「紀元節」を復活させる運動が起きると、殿下は次のように反対意見を表明なさった。  

 「歴史の研究は年代の枠を土台として進められる。もしこの土台に少しでもゆるぎがあったならば、いかにみごとな歴史を組み立てても、それは砂上の楼閣にすぎない。私は重ねて歴史研究者として、架空の年代を国の権威をもって国民におしつけるような企てに対しあくまで反対するとともに、科学的根拠、いいかえれば今まで考古学者や文献学者が刻苦精励、心身をすりへらしてまでも積みあげてきた学術的成果の上に立って、改めて日本古代の神話継承の研究をさらに押し進めるような感情論から、学問研究の百年の計を一瞬にして誤るおそれのある建国記念日の設置案に対して深い反省を求めてやまない」(崇仁親王殿下「紀元節についての私の信念」『文藝春秋』昭和三十四年一月号)  

 確かに、四世紀以前は国内で文字は使用されていなかったため、その時代の固有名詞や日付は伝わらない。『日本書紀』に記された神武天皇ご即位の日は、後世にそう決めたものであり、それをグレゴリオ歴に換算して得られた「二月十一日」を史実として断定することは学問的に問題であるという主張は、学者としての良心に照らし合わしてのことと拝察する。  

 このご指摘に対して、復帰を推進する立場の里見岸雄が「宮は、観察眼を正確にして直視されなければならない」と公然と反論するなど、数多くの強い批判にも晒され「赤い宮様」とも表現された。筆者は、史実はともあれ『日本書紀』に書かれていることにちなんで、差し当たりその日を建国の日と理解して祝うことは別段問題ないと考えるが、史実と神話を混同させてはいけないこともまた重要である。そのため、皇族であられる殿下が学者としてご指摘をなさったことは意義深い。日本軍の問題を目の当たりにし、戦時中に軍批判をなさった殿下には、神話の不確実な部分を事実と断定して国民に押しつけることを嫌悪なさったのではないかと拝察する。  

 明治時代の日本は冷静だった。神話は神話として価値があり、神話を歴史的事実として国民に押しつけることはしてこなかった。具体的には、大日本帝国憲法と教育勅語を起草した井上毅は、これらに神話を持ち込むことを嫌い、天皇の根拠は神話ではなく、歴史に求める態度を貫いた程である。ところが、先の大戦では、政府は神話を事実と混同するような態度を取り、天皇を「神」として扱うようになった。紀元節復活に当たっての三笠宮殿下のお考えは、そのような過去の戦争の反省から素直に表現なさったと思う。

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