月刊正論1月号

三笠宮崇仁親王殿下は男系を守ろうとされた 作家・竹田恒泰

 当時は言論が厳しく制限され、軍の参謀が自由に「日本に不利なる発言」をすることができないなか、皇族であるが故に言わねばならないとの強いご信念から御発言になったことと拝察される。このなかで殿下は、日本軍の軍紀が乱れていたことを憂慮なさり、支那事変が解決しない原因は「日本軍軍人の『内省』『自粛』の欠如と断ずる」と、強い言葉で日本軍の問題をご指摘になった。  

 この日本軍を批判する御言葉は、終戦後に語られたものではない。戦時中に、戦地において百二、三十人の尉官を前にして講義なさったもので、当時はタブー中のタブーとされる内容だった。当時、たとえ皇族であっても、これほど明確に軍を批判する記述を残した方はいらっしゃらない。その後、殿下は大本営参謀となり、陸軍少佐で終戦をお迎えになった。  

 昭和天皇がポツダム宣言受諾の御聖断をお下しになると、それを翻意させようとした阿南惟幾陸軍大臣が三笠宮邸を訪れた。この時殿下は「陸軍は満州事変以来大御心にそわない行動ばかりしてきた」と仰せになり、大臣の要請をお退けになったという。帰りの車のなかで大臣は低い声で「そんなにひどいことを仰せにならなくてもよいのに」とつぶやき、ひどく落胆した様子だったと伝えられる。その阿南大臣が八月十五日未明に自決したことは周知の事実である。   

 また、終戦後の早い段階で、殿下が天皇の譲位について独自のお考えを示していらしたことは、いま注目されている。天皇の譲位に関して、殿下は終戦後の昭和二十一年十一月に「新憲法と皇室典範改正法要綱(案)」と題する意見書をお書きになり、皇室典範改正を審議していた枢密院にこれをご提出になった。その中で殿下は、崩御以外に譲位の道を開くべきであると書いていらっしゃる。  

 結局殿下のご意見は採用されず、新皇室典範に譲位の制度は盛りこまれなかった。その翌月、殿下はこの点について「自由意志による譲位を認めていない、つまり天皇は死なれなければその地位を去ることができないわけだが、たとえ百年に一度ぐらいとしても真にやむをえない事情が起きることを予想すれば必要最小限の基本的人権としての譲位を考えた方がよいと思っている」との意見を新聞に掲載なさった。七十年も前の時点で明確に譲位を肯定していらっしゃったことは、先見の明と言うべきであろう。  

 このように皇族軍人として激動の時代を生き抜いた殿下は、終戦後は全く異なる世界に身を投ぜられた。殿下は昭和二十二年(一九四七)四月から東京大学文学部の研究生となり、古代オリエント史のご研究に没頭なさった。通学では電車とバスをお使いになった。昭和三十年(一九五五)からは東京女子大学で、皇族としては初めて教鞭をとり、その後も東京芸術大学、青山学院大学、専修大学などでも授業を受け持った。 先述の中国語同様に、殿下はオリエント史を研究するにあたり、『旧約聖書』の原典を読むためにヘブライ語を学習なさり、流暢にお話しになるほどに達せられた。その他、英語、フランス語も堪能であられた。殿下は日本オリエント学会設立を提言なさり、会長にご就任になったほか、中近東文化センターと日本トルコ協会では名誉総裁をお務めになった。

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