月刊正論1月号

三笠宮崇仁親王殿下は男系を守ろうとされた 作家・竹田恒泰

外国語を学ぶ意味とは

 大正四年(一九一五)十二月二日に大正天皇の第四皇子としてご誕生になった崇仁親王殿下は、四人兄弟の末っ子であられた。同じ大正天皇の皇子でも、長男と四男では全く別の人生を歩むことになる。大正十五年(一九二六)に大正天皇が崩御となると、長男の裕仁親王殿下は天皇にご即位になり、崇仁親王殿下は十一歳にして「天皇の弟宮」となった。

 その後、殿下は明治以来の慣習に従い、軍人としての道を歩むことになる。昭和七年(一九三二)に陸軍士官学校にご入学になり、陸軍騎兵学校を経て、陸軍大学校をご卒業になる昭和十六年(一九四一)十二月、日本は米国との戦争に突入。殿下は戦争中の昭和十八年(一九四三)に、お印の「若杉」にちなんで「若杉参謀」を名乗って皇族の身分を隠し、支那派遣軍参謀として南京に赴任した。中国では総司令部の通訳官をしていた木村辰男が、三笠宮殿下の中国語教師に任命された。既に殿下は中国語を勉強していらっしゃったようで、木村が初めて殿下に拝謁した時、殿下は中国語を研究する抱負を次の様に話していらっしゃったという。 

 「自分は過去において英語を学んだ。〔中略〕英語を勉強していると、自然と英語を使用している民族に対する理解が出来てくる。一切の言動に好感がもて、かつ親愛の情がわいてくるものである。〔中略〕自分が今日、中国語を研究せんとするのはそのためであって、必ずしも中国語を学んで、中国人との直接意思疎通を図り、また外交的な道具に供することを主眼とするものではない。中国および中国人を深く理解したいという念願からである。異民族を理解するための最短距離は、まずその民族が平素用いている言葉を学ぶことだ。況んや中日の関係が今日の如く、戦争状態にある秋にこそ、その必要を殊更、痛感する」(木村辰男「南京の若杉参謀」『週刊朝日(臨時増刊)』昭和二十七年三月二十五日号)   

 将来学者となられる殿下らしい論理的思考もさることながら、異民族を理解しようとする深い人間愛を感じるのは筆者だけではないであろう。 

皇族軍人の軍批判

 昭和十九年一月五日に南京で行なわれた尉官に対する教育で、殿下が二時間に亘って日本軍の反省について語ったその内容は、実に衝撃的なものであった。この講和の記録によると、冒頭で殿下は次の様に仰せになったという。 

 「戦争指導の要請上、言論は極度に弾圧せられあり。若干にても日本に不利なる発言をなし或は日本を批判する者は、たとえ真に日本を思ひ中国を愛し東亜を患ふる情熱より発するものといえども、之を遇するに日本人に在りては『売国』を以てし、中国人に在りては『抗日』『通的』あるいは『重慶分子』を以てせらるる。今日一般幕僚に於ては大胆なる発言は困難なり」(若杉参謀「支那事変ニ対スル日本人トシテノ内省」。一部の漢字表記とカタカナ表記をひらかなにし、句読点を補った)

会員限定記事会員サービス詳細