竹島を考える

「北方領土」でも同じ轍を踏むのか 歴史・外交音痴の日本がとるべき手段は 

この11月28日、韓国の教育部は従来の検定歴史教科書に代えて、新たに編纂(へんさん)した国定の現場検討本教科書を公開した。国定教科書では竹島問題に関する記述が増え、東海(日本海の韓国側呼称)について初めて言及するなど、歴史戦争の様相を呈している。日本の歴史教科書が「竹島は日本固有の領土で、韓国が不法に占拠している」と簡略な記述であるのに対して、韓国側の歴史認識に基づいて解釈された文献を列挙し、それを使って、「SNSを通じて独島(竹島の韓国側呼称)が我が国の固有の領土であることを広報してみよう」とするなど、実戦モードになっている。そのため韓国では年間10時間ほどの竹島教育が行われ、副教材も準備されている。

韓国側の歴史問題戦術に対応できぬ日本

同じ歴史教育でも、日本と韓国とではなぜこうも違うのか。それは、領土問題に対する基本姿勢が違っているからである。日本では、竹島は「歴史的にも国際法上も日本固有の領土」とするだけで、その記述に具体性を欠いている。

これに対して韓国側は、「無主の地」であった竹島が1905年1月18日の閣議決定を経て日本領になったことに、納得しない。事実、韓国政府は、竹島問題を国際司法裁判所に付託しようとした日本政府に対し、それ自体を侵略行為として拒否した。

日本側では「国際法」を中心にして領土問題に取り組んできたため、「歴史問題」とする韓国側の戦術に対応できないのである。だがこの実態は、竹島問題に限ったことではない。

北方領土で歩み寄りを見せるロシアの真意は

近年、俄かに浮上した「北方領土」でも、日本は同じ轍(てつ)を踏んでいる。何故この時期にロシアが「北方領土問題」で歩み寄りを見せたのか、考えてみる必要がある。そのヒントとなるのが160年ほど前の帝政ロシアである。

当時のロシアは、1853年からのクリミア戦争で劣勢になると、極東に触手を伸ばした。それが1855年2月、択捉(えとろふ)島と得撫(うるっぷ)島の間を国境とした「下田条約」である。

一方、清朝とは1860年に「北京条約」を結び、外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の沿海州を奪っている。その中国が今、国力を増し、多くの隣国が脅威を感ずるまでになった。ロシアは、沿海州に中国の影響力が及ぶことを嫌っているのである。

加えてロシアは、2014年、国際的にウクライナ領とされているクリミア半島に侵攻し、国際社会から孤立した状況にある。このため、尖閣諸島問題で中国と対立している日本を利用し、160年ほど前の故事に倣い、極東に活路を求めたのだろう。

北方四島だけでない日露の領土問題

そこでロシアが掲げたのが、「北方領土問題」で譲歩の素振りを見せるという餌である。

歴史問題として見た時、ロシアとの領土問題は北方四島だけではない。「下田条約」で択捉島、国後(くなしり)島、色丹(しこたん)島、歯舞(はぼまい)群島を日本領とした後、日露両国は1875年に「千島樺太交換条約」を締結して平和裏に千島列島が日本領となり、1905年には、「ポーツマス条約」によって南樺太が日本領となった。

だがその千島列島と南樺太は、敗戦国日本が国際社会に復帰することになった「サンフランシスコ講和条約」で放棄させられ、北方四島はロシアに武力占拠された。歴史的事実として見た時、日露間の領土問題は北方四島に限らないのである。

千島、南樺太の放棄求めていないポ宣言

太平洋戦争に敗れた日本軍は、1945年8月14日、「ポツダム宣言」を受諾して無条件降伏したが、そのポツダム宣言では、千島列島と南樺太の放棄を求めておらず、北方四島にも触れていない。