「忠臣蔵」人気
この時期になると決まって忠臣蔵の話を書きたくなる。昨年の今頃も当欄で討ち入りに触れたが、今年もまた、いや今年は例年に増して書きたい気持ちが募っている。東京・国立劇場の開場50周年を記念して現在、『仮名手本忠臣蔵』が歌舞伎と文楽で通し上演されていることも理由の一つではある。
『仮名手本〜』の時代設定や登場人物名は史実と大きく異なる。幕府の目をはばかったためで、幕府にすれば討ち入りは違法な集団暴力であり、これを美化する劇など許されるはずがなかった。初演は討ち入りから47年目の寛延元(1748)年。四十七士を仮名(いろは四十七文字)に仮託し、義士こそ武士の手本とたたえ、大石内蔵助の蔵を忍ばせて忠臣蔵とした。
メタファー(隠喩(いんゆ))をたっぷりと仕掛けた『仮名手本〜』が芝居の独参湯(どくじんとう)となったのは、忠義に殉じた武士道に町民が喝采したからでもあるが、本来なら喧嘩(けんか)両成敗となるところを赤穂側だけに厳罰を下した幕府への痛烈な批判が背景にある。
いろは歌を7文字ごとに区切り、末尾の字を連ねると「とかなくてしす」(科(とが)なくて死す)となる。罪もないのに切腹を言い渡した幕府への見事な当てこすりだ。時の将軍、綱吉は「生類憐(あわれ)みの令」で庶民を苦しめたことから、綱吉に対する鬱憤晴らしでもあったのだろう。