月刊正論12月号

「南京大虐殺」を世界遺産にしたユネスコ事務局長のトンデモない経歴 ミロスラフ・マリノフ(ジャーナリスト)

 ボコバが受けた教育やキャリアは特権階級に属していた家族によるところが大きい。ボコバの父、ゲオルギ・ボコフは共産党機関誌の編集長で、プロパガンダ活動の中心人物であり、1954年から89年までブルガリアで独裁体制を敷いていたトドル・ジフコフ国家評議会議長と近い関係にあった。筆者がソフィア大学に在学していた時に、何度かボコフの講義を聞かなければならないことがあった。大学で講義をするだけの知識がなく、自分の意見を主張するわけでもない。最初から最後まで共産党の政策を賛辞するだけの話は、まったく退屈だった。このような話を聞かなければならない学生は不運だったと思っている。

 ボコフは、第二次世界大戦中に反政府のゲリラとして活動を始めた。ソ連軍がブルガリアに侵攻し占領した後、ボコフのキャリアは飛ぶ鳥を落とす勢いだった。その一方で大戦中に、著名なジャーナリストで漫画家であるライコ・アレキシエフがスターリンの風刺画を描いたという理由で殺害しただけでなく、人民裁判所による処刑にも関与していた。1944年以前にファシズム政権に加担した、とされた数千人の政治家や知識人の殺害を許可する弾圧的な人民裁判所がソ連の命令により設置されたが、ボコフはここでの処刑にも関与していたのである。

 そうした父のもとで、ボコバと兄のフィリップ・ボコフは特権階級に与えられた無限の恩恵を受けて育った。彼らは共産党幹部だけに入学が許可された首都ソフィアのエリート英語学校で学んだ。1976年、将来の外交官を養成し、KGBと近い関係にあったとされるモスクワ国際関係大学を卒業したボコバは西側諸国を何度も訪問している。さらに82年から84年まで、ブルガリア政府の代表としてニューヨークに赴任した。

 この時代、一般のブルガリア人は移動が厳しく制限されていた。共産圏内の隣国へ行くにも、毎回ビザを申請しなければならず、地元の警察(民兵)が出国の許可を出さないこともあった。出国できるかどうかは民兵の判断次第だったが、ボコバはこのような不便を味わったことは一度もなかった。

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