湯浅博 全体主義と闘った思想家

独立不羈の男・河合栄治郎(70)その生涯編・凛冽たる風貌

10年早い突然の死

 最期の日は突然に訪れた。その日、栄治郎はいつものように朝から書斎に籠もって仕事に没頭していた。夕刻に散歩に出て、帰宅後に夕食をとると、約束のあった吉田省吾が午後8時にやってきた。海軍主計大尉の吉田は、軍需工場の監査をしていた門下生で、結婚の相談に訪れたのだ。

 吉田は書斎に入ると、栄治郎の生気がないのが気になった。すると「箱根から帰ると具合が悪い様です」と答えた。妻、国子の出してくれたお茶を飲み、結婚の話をしていると、突然に左右に体を動かして「ああ、気分が悪くなった」「…ちょっと失礼」と急に席を立った。

 「床を敷いてくれ」

 「ラジオをとめてくれ」

 夫人の電話する声がするかと思うと、突然、栄治郎の叫び声がした。吉田は飛び上がって駆け付け、医者を求めて夜の住宅街を走り抜けた。暗い山王の林を迷い、風は吹き荒れ、木々がざわめいていた。まるで悪魔が嘲笑しているようにさえ感じた。医者を連れて戻ると、国子夫人が寂しい灯火の下で、栄治郎の顔をなでながら別れの言葉をかけていた(吉田「御最後の夜」『月報5』)。

 河合栄治郎は昭和19年2月15日午後9時15分、53歳でこの世を去った。石にかじりついても思想体系を完成させたいと考えていた目標より10年早い死であった。栄治郎は大学の教師として19年を生き、生涯で28冊の書物を書き残した。

 枕元にはヴィンデルバンドの『歴史と自然科学』が置いてあった。その最終ページには、いつものように読了日が赤インクで「Feb,15,1944」と残されていた。読み終えて3時間後に亡くなったのである(木村「生涯と思想」『伝記と追想』)。=敬称略(特別記者 湯浅博)

 ■独立不羈(どくりつふき) 束縛や制約を受けずに自分の意思に従って自由に行動する。「羈」は馬のたづなの意味。