湯浅博 全体主義と闘った思想家

独立不羈の男・河合栄治郎(70)その生涯編・凛冽たる風貌

 かつてマルキシズムが台頭したのも、これに対抗すべき思想体系が存在しなかったからであるとの思いが強い。従って、体系部は「道徳哲学を中心として之(これ)に歴史、社会、国家等の哲学を聯関(れんかん)せしめて、やがて当面の社会状勢に対応すべき社会思想を創造」することを目的としている(「研究所設立趣意書」『全集第二十巻』)。

 栄治郎が信頼する木村健康らが、日本再建の原理を哲学、歴史などの研究を通じて確立する使命を担った。三菱経済研究所で「ドイツの継戦能力」を研究していた猪木正道は、「外国部」でドイツとソ連を担当し、朝日新聞の土屋清は英国を担当することになった。栄治郎が期待していた「青日会」の外山茂は満州の新京に転勤し、関嘉彦はボルネオに赴任し、音田正巳は出征していた。

 土屋は栄治郎から「月給として百円支給したいのだが、当分の間五十円で我慢してください」と言い渡された。猪木にも河合研究所から12月と1月に研究費が郵便為替で送られてきた。ちなみに、「設立趣意書」には研究所名がなく、便宜的に河合研究所を使っていた。

 門下の人々は、研究所の創立で、栄治郎が気迫十分で語る姿を心から喜んだ。しかし、若いころの頑健な栄治郎を知る人々には、やせ衰え、ともすれば震えがちな指先や黒ずんだ両眼のくまに憂いを感じずにはおられなかった。土屋には「風雪に耐える松柏のような凛冽(りんれつ)たる風貌」に見えた。