湯浅博 全体主義と闘った思想家

独立不羈の男・河合栄治郎(70)その生涯編・凛冽たる風貌

河合研究所の設立

 昭和19年1月23日、栄治郎は青日会のほか友人、知人に声をかけ、虎の門の「晩翠軒」で研究所の設立総会を開いた。参加した門下生たちはこの日、栄治郎の気迫に「鬼気迫るものがあった」と感じていた。

 「私は理想主義体系の執筆を完成する六十四歳までは、石に齧(かじ)りついても死にません。それからあとは自分の好きな伝記をまとめながら、二、三年に一冊位(くらい)随筆を書き、晩年の五年は世の中の移り変わりと、諸君のえらくなっている様を静かに眺めて暮らしたいと思います」

 参加者は胸を突かれる思いがした。彼の「石に齧りついても」という宣言のうちに、漠然とではあるが健康への不吉な予感があったのかもしれない。土屋清は後年、研究所発足時の栄治郎について、「健康さえ許すならば、多分、それは時計のように正確に実現されたことであろう」と思い返している(土屋「孤高凛然たる晩年」『著作拾遺』)。

 栄治郎が先立つこと、わずかに20日前のことである。

 栄治郎は新しい研究所が「戦後日本の再建を研究するのが目的である」と述べ、設立趣意書には、「体系部」「日本部」「外国部」「反共部」から構成されることを明らかにしている。その中心は、栄治郎が自ら主宰する「体系部」で、日本に確固たる思想の基軸を体系化することに絞っている。