湯浅博 全体主義と闘った思想家

独立不羈の男・河合栄治郎(70)その生涯編・凛冽たる風貌

晩年、52歳のころの河合栄治郎=昭和18年(全集から)
晩年、52歳のころの河合栄治郎=昭和18年(全集から)

(毎週土曜日に掲載します)

「戦闘的自由主義者」の最期

 真珠湾攻撃を契機として始まった日米戦争は、緒戦の勢いに引き換え、ミッドウェー海戦の辺りから形勢が不利になる。河合栄治郎邸で開催される月2回の研究会「青日会」も、参加者が軍に召集されるなどして次第に少なくなった。

 戦争が長引き、物価が高くなり、貯蓄を切り崩す河合家の台所事情も苦しくなる。戦時のインフレ高進は、印税収入がたよりの家計を直撃した。栄治郎自身は理想主義体系の研究に没頭していたが、彼の周辺にいる人々は深く憂慮していた。

 窮状を見かねた門下生で、義弟の高田正が弁護士の海野晋吉、山田文雄、木村健康らと相談した。彼らは栄治郎を所長とする研究所を創設し、後顧の憂いなく思想体系に没頭できる態勢を企てた。高田の親友である元京城帝大教授の栗原一男がこれを伝え聞き、彼を介して実業家の小林采男から資金援助を受けることになった。

 栄治郎は申し出を快諾した。研究所長として、さしあたり青日会のメンバーに研究員を委嘱した。ただ、要注意人物として監視されており、敗戦後を視野に入れた研究は目立たないよう準備を進めた(木村「生涯と思想」『伝記と追想』)。