鎌倉に眠る大塔宮護良親王 語り継がれる非業の死

 鎌倉市二階堂に、非業の死を遂げた後醍醐天皇の皇男子(息子)の墓がある。眠るのは鎌倉幕府倒幕の功労者、大塔宮護良(おおとうのみやもりよし)親王。父が天皇親政の建武政権を成立させると、その倒幕の功から征夷大将軍に任じられたが、倒幕最大の功労者の一人である足利尊氏と対立し、鎌倉に長期幽閉された末に殺害された。近くには護良親王をまつる神社「鎌倉宮(ぐう)」もある。紅葉のシーズンを迎え、今後一層多くの人出が予想される古都・鎌倉だが、同墓周辺は静謐(せいひつ)が保たれており、歴史ファンにはおすすめの穴場スポットという。

 各種の歴史関連資料などによると、護良親王は延慶(えんぎょう)元(1308)年に誕生。6歳のときに京都・大原にある天台宗の三千院に入った。11歳になると、比叡山延暦寺に入り、20歳で天台座主(ざす)(第116世、118世)となる。

 ◆足利氏と対立

 後醍醐天皇は鎌倉幕府を討つべく挙兵。これに呼応して、還俗した護良親王や楠木正成らも挙兵したが、後醍醐天皇は幕府に捕らえられ、隠岐の島(現・島根県)に流される。護良親王らはその後も倒幕勢力を募って戦いを続け、足利尊氏らの大きな武勲の後押しで鎌倉幕府の倒幕に成功した。

 後醍醐天皇は京都に戻り、天皇親政の建武政権を成立させると、護良親王を征夷大将軍に任じる。だが、護良親王は征夷大将軍の地位を欲していた尊氏とは相いれず、逆にとらわれの身となって鎌倉・東光寺に幽閉。諸説あるが、9カ月間、幽閉された末に暗殺されてしまったと伝えられる。

 護良親王の首は、やぶの中に捨てられ、近くにあった理智光寺の住職がこれを埋葬したともいわれる。同寺は明治の初めに廃寺となり、寺の跡地にある護良親王の墓は現在、宮内庁が管理している。

 閑静な住宅地の一角に墓の碑があり、その後ろの小高い丘の上まで長い階段をのぼると、墓はある。

 一方、天皇親政の下に王政復古を実現させた明治天皇は明治2(1869)年、短期間だったとはいえ天皇親政の政権の成立に尽力しながらも、不幸な最期を遂げた護良親王に思いを寄せて、東光寺跡地に神社造営を指示。自ら「鎌倉宮」と名付けた。6年には、初めて鎌倉宮に足を運んでいる。

 ◆きょうだいの墓も

 鎌倉宮から北西に約2キロ離れた北鎌倉駅のそばにも、宮内庁が管理する皇族の墓がある。鎌倉市山ノ内にある東慶寺の墓地で眠るのは、後醍醐天皇の皇女子(娘)で、護良親王のきょうだいである用堂女王(じょおう)。同寺は明治の初めまで女性が住職を務める尼寺だった。江戸期末までは縁切り寺や駆け込み寺と呼ばれていたことで知られる。

 用堂女王は出家して用堂尼となり、護良親王の菩提(ぼだい)を弔うために同寺の住職となったとも伝えられる。以後、この寺は「鎌倉御所」や、「松岡山」の山号から「松岡御所」「松ケ岡御所」などと称されるようになったという。

 鎌倉で非業の死を遂げた親王と、その菩提を弔ってこの地に没した尼僧とのきょうだい愛は、2つの墓を通じて現代に語り継がれている。墓を管理する宮内庁は「親王、女王ともに命日には、当庁の非常勤職員らが命日祭である正辰祭を行っています」と話している。

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【用語解説】後醍醐天皇

 正応元(1288)年に誕生した。第96代天皇であり、南朝の初代天皇。鎌倉幕府が滅びた後、後醍醐天皇が始めた天皇中心の政治「建武の新政」は長続きせず、離反した足利尊氏と戦って敗れると、奈良・吉野に逃げて南朝を開き、足利氏が擁立した京都の北朝と対峙(たいじ)した。延元4(1339)年に崩御。息子の大塔宮護良親王は「だいとうのみや」「もりなが」と読むとの説もある。

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