オリンピズム

1964東京(7)円谷幸吉の悲劇 記憶が歌で紡がれる

 やがて京都はフォークソングのブームに染まる。茶木もギターを弾き歌を歌うおもしろさを知った。高校3年、同年のフォーク仲間、今江真三郎から「曲をつけてくれ」と詩を渡された。円谷の遺書を題材とする「一人の道」だった。曲なんか作ったことはない。なぜ私だったんだろう。知っているコードを並べて、なんとか作った。

 同志社女子大に進み、小林京子とフォークデュオ「ピンク・ピクルス」を結成する。長く続ける気はなく、1年間の活動の記念にアルバムを作るが曲が足りず「一人の道」を入れた。シングルカットの際にディレクターが、冒頭の実況を曲の頭に挿入した。

 ラジオの深夜放送で人気に火が付いたころには、もう歌っていなかった。円谷の両親に、改めて悲しい思いをさせるかもしれないと考えたのも歌わない理由だった。

 歌の世界からは完全に離れていたころ、ロサンゼルス五輪の体操金メダリスト、具志堅幸司がテレビ番組で自らへの人生の応援歌に「一人の道」を挙げ、「すり切れるまで聴いて、今持っているのは2枚目」と話すのを聞いた。そんなこともあるんやな、の思いが背中を押した。