ぺちゃんこになった車から這(は)い出してきた運転手同士が互いに無言で歩み寄り、深々とお辞儀し、名刺を交換して立ち去ったのだという。「チェコではあり得ない光景」と彼女は書いたが、52年後の日本人にも信じられない。現在の日本ではあり得ない。
東京五輪後の人生は暗転する。68年、民主化運動「プラハの春」を支持する「二千語宣言」に署名して職を失い、それでも共産党政権の署名撤回要求を拒否し続けた。89年の民主化で名誉を回復したが、息子が前夫を死なす事故をきっかけに精神を病み、闘病生活は長く続いた。
2009年5月に遠藤が72歳で亡くなると、葬儀では「私の人生の師であり、かけがえのない存在でした」と彼女の弔電が読まれた。
11年3月11日、東日本大震災。日本の惨状に彼女は立ち上がる。同年10月、来日して仙台で被災地の子供と触れ合い、翌年3月には岩手県大船渡市、陸前高田市の中学生26人をプラハに招いた。
地元の子供らとのスポーツ大会で、運動能力がひと際目立った一人の少年にチャスラフスカが話しかけ、日本チェコ友好協会の村田祐生子常務理事が通訳した。
「あなたはエンドウユキオを知っていますか」
それは恋を超える、尊敬や友情の色合いが濃い、長く深い確かな愛だったのだろう。(別府育郎)