「天皇崩スルトキハ皇嗣(こうし)即チ践祚(せんそ)シ祖宗ノ神器ヲ承ク」(天皇が崩御したときは皇太子が速やかに天皇の地位を継ぎ、三種の神器を受け継ぐ)
明治22年2月11日に大日本帝国憲法と同時に勅定(ちょくじょう)された皇室典範は第10条にこう記した。これにより慣例化していた譲位は封じられた。現行の皇室典範でも第4条で同様に定めている。
初の譲位を行った皇極天皇(第35代)は、豪族から朝廷に政治を取り戻す政治改革を掲げ、夫の舒明(じょめい)天皇(第34代)の崩御後、長男の中大兄皇子(後の天智天皇=第38代)に改革を断行させるために皇位を継承させず自らが皇位に就いた。
皇室典範の逐条解説書『皇室典範義解(ぎげ)』は、聖武(しょうむ)天皇(第45代)と光仁(こうにん)天皇(第49代)で譲位が常態するに至ったとしている。伊藤博文はこれを「世変」と表現した。
義解では、譲位の定着により、中世(鎌倉、室町時代)には、力を持った臣下により皇統が2つ(持明院統、大覚寺統)に割れる南北朝時代を招いたり、天皇が短期間で交代する例が次々に起き、日本が大混乱に陥ったと指摘する。
江戸時代にも、幕府と朝廷の対立が引き金となり、寛永6(1629)年に後水尾(ごみずのお)天皇(第108代)が電撃的に娘の明正(めいしょう)天皇(第109代)に譲位したことがあった。後水尾天皇は江戸幕府が朝廷に対して優越を示した紫衣(しえ)事件などをめぐり、不満を募らせたことが原因で、譲位後は院政を敷き、明正天皇は名目だけの存在だった。