生前退位

明治の元勲・伊藤博文はなぜ譲位容認案を一蹴したのか? 「本条削除すべし!」 明治天皇に燻る不満「朕は辞表は出されず」

 この瞬間、皇室典範から譲位に関する規定は消えた。この会議は「高輪会議」として今も語り継がれる。伊藤も、まさかこの130年後に「生前退位」という表現で譲位が再び議論の場にのぼるとはつゆも思わなかったのではないか。

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 高輪会議の主要なやりとりは「皇室典範草案談話要録」に残されている。

 井上は、大日本帝国憲法や教育勅語などに携わった明治期の法制官僚。井上を「忠実無二の者」と高く評価していた伊藤が、譲位については一切耳を貸さなかったのはなぜか。

 実は歴代天皇は崩御より譲位による皇位継承の方が多い。特に初めて譲位をした皇極(こうぎょく)天皇(第35代)以来、歴代天皇は次々に譲位を行い、明治天皇が即位する前までの92代(重祚(ちょうそ)、北朝5代含む)のうち譲位は64代を数える。

 皇室典範策定直後の明治22年4月に井上が伊藤の名で著した『皇室典範義解(ぎげ)』では、譲位が続いた中世をこう批判している。

 「権臣の脅迫によって両統互立を例とすることがある。南北朝の乱は、ここに原因がある」

 おそらく伊藤は、譲位を認めれば、いつか上皇や法皇による院政が復活し、皇統の危機を招きかねないと考えたのだろう。さらには、近代国家としての日本を不安定にしかねないと危惧したとみられる。