浪速風

草分けありて

司馬遼太郎氏
司馬遼太郎氏

末次攝子(せつこ)さんは昭和20年代、京都大学の記者クラブで司馬遼太郎さんと机を並べた。「原稿を書く情熱を持つ女性、集まれ!」に誘われて地元新聞社に入り、「彼女と比較するかぎりにおいては、記者クラブの男たちは、青春のにおいが涸(か)れはじめているという意味で、大人っぽく薄汚れて見えた」。

▶司馬さんは、蝶結びにしたワンピースのベルトがいつも風の中でひるがえっていた、と記憶する。「彼女が書く記事のほとんどが彼女以外知らない事象(つまり特ダネということ)」で、しかも難解な理論物理学をジャガイモが煮える話を導入に料理の解説書のようにわかりやすく展開してみせた。

▶その後、草創期のテレビのプロデューサーに転じ、さらに大阪府参与に迎えられた。草分けとして女性が活躍する時代の扉を開いた。「新聞記者 司馬遼太郎」の取材で知り合い、何度か示唆に富むお手紙をいただいた。ジャーナリズムへの若々しい情熱を終生失わなかった。