さきの大戦直後、九州・山口の漁船団が尖閣諸島(沖縄県石垣市)まで出航していた記録を鹿児島大水産学部の佐々木貴文助教(水産政策論)が発見した。戦後間もなく資機材や燃料が不足した中でも九州の漁師が繰り出すほどに、周辺海域が好漁場だったことを示す。現在は中国当局の船の度重なる領海侵入の影響もあり、日本の漁船は事実上、閉め出されている。 (九州総局 奥原慎平)
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資料の名称は「東支那海(ひがししなかい)底魚資源調査要報」で、昭和22、24年、水産庁福岡駐在所(現・九州漁業調整事務所)が発刊した。佐々木氏が、内閣官房の進める尖閣諸島関連史料の発掘・調査に協力し、鹿児島大付属図書館で確認した。
要報では東シナ海を30マイル(約50キロ)四方のエリアに分け、九州・山口の漁船団による1カ月ごとの漁獲高を書き残していた。
このうち22年7月分では尖閣諸島の久場島を含む漁区に、水揚げ量1万貫(37・5トン)を示す赤い印が2つ付いていた。より詳細な調査に切り替えた23年5月には魚釣島の漁区で2万4010貫(90トン)の漁獲があったことも判明した。
佐々木氏は「終戦直後、燃料も漁網も足りない中で出漁していたのは、それだけ好漁場だと認めていた証拠だ。漁師は当たり前のように尖閣を日本の島と認識していた」と指摘する。
尖閣諸島を含む琉球諸島と大東(だいとう)諸島は47年5月の沖縄返還まで、米国の施政下に置かれた。
終戦直後、連合国軍総司令部(GHQ)はいったん制限した日本漁船の活動可能海域(通称・マッカーサーライン)を、段階的に広げた。日本人の食糧不足の解消が目的だった。
尖閣諸島周辺での操業は21年6月、解禁された。同要報によればその翌年に、早くも同エリアで漁業が確認されたことになる。主にレンコダイが揚がった。
24年要報の内容は内閣官房領土・主権対策企画調整室がネット上に開設した「尖閣諸島資料ポータルサイト」に今月23日、掲載された。
同室の担当者は「戦後間もない時期に公的機関がまとめた漁業調査で、珍しい資料だ。当時は尖閣周辺で平穏に調査が行われたことを示しており、周辺海域をわが国が実効支配していた傍証だといえる」と語る。
佐々木氏は、鹿児島県水産試験場の事業報告書も確認した。昭和25年1月に魚釣島も含め、東シナ海で行われた漁業調査の結果が記載されていた。
日本領土の範囲を確定したサンフランシスコ講和条約が発効した27年4月の8カ月後にも、同試験場は魚釣島付近でカジキの漁場調査を実施した。
しかし、現在は尖閣周辺の領海やその外側の接続水域に、中国当局の公船や漁船が頻繁に押し寄せる。
石垣市の中山義隆市長は「沖縄の漁師には昔から、尖閣周辺は好漁場だと伝えられてきた。本来なら船だまりを整備し、有効活用すべきだ。日本の領海なのに近寄れない現状は受け入れがたい」と憤った。
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【用語解説】マッカーサーライン
さきの大戦直後、移動を禁じた日本漁船にGHQが昭和20年9月、日本近海の63平方カイリ内で認めた漁業許可区域。21年6月、それまでの北緯30度から南端を同24度まで広げ、尖閣諸島も範囲に含めた。24年9月の第3次拡張で太平洋の公海にも広げ、サンフランシスコ平和条約が発効する直前の27年4月、撤廃された。わが国の領土・領海とは無関係とされる。