2日、ウズベキスタンのイスラム・カリモフ大統領が死去したことにより、中央アジアに権力の空白が生じつつある。ウズベキスタン政府が発表するカリモフ氏の公式履歴には、同氏はウズベク人と記されている。しかし、実際は、父親はウズベク人だが母親はタジク人だ。カリモフ氏の出身地であるサマルカンドは歴史的にタジク人の街だ。カリモフ氏はロシア語学校に通い、家庭ではタジク語を話していた。ウズベク語がトルコ語系であるのに対してタジク語はペルシャ語系で、コミュニケーションは難しい。
カリモフ氏は1989年にウズベキスタン共産党第1書記に就任した。これはゴルバチョフ・ソ連共産党書記長(当時)が、中央アジアにおけるウズベク人の影響力を弱めるという政治的意図があったからだ。当時はソ連が崩壊するなどと思っている人はいなかった。また、中央アジアの政治エリートも公式の場ではロシア語を用いていた。従ってウズベク語の知識が不十分なカリモフ氏でも支障なく仕事をこなすことができた。
ソ連崩壊と同時期に、カリモフ氏は共産党を人民民主党に改称した。そして反共産主義的姿勢を鮮明にした。もっともウズベキスタンだけでなく、他の中央アジア諸国でも共産主義イデオロギーはロシアからの借り物に過ぎなかったので、これら諸国の共産党は反共的な民族政党に改組された。ナショナリズムを基本に行う政治においては民族言語が決定的に重要になる。カリモフ氏は家庭教師を雇いウズベク語を勉強し、公式の席では極力、ウズベク語を用いるようにした。ただし、複雑な話のときはロシア語を用いた。