海軍兵学校時代の「生徒休暇記録」もあった。15年8月8日から28日まで、夏休みの記録が日々つづられている。国家の行方について所感をつづった日もあれば、海水浴を楽しんだ日も。きちょうめんで細く丁寧な文字からは繊細な精神がうかがえる。
さらに「関行男」と名前が書かれた筆箱も。中には鉛筆と赤鉛筆、そしてコンパスが1本。鉛筆の先を削ったナイフの跡が生々しい。
遺書に見る家族への思い
海軍兵学校在学中の16年、関中佐の父・勝太郎が亡くなると、母サカエは古物商をたたみ、草もちの行商人として細々と暮らした。海軍兵学校は同年卒業し、翌年、海軍少尉となる。18年に霞ヶ浦海軍航空隊入隊し、翌19年、飛行教官に就任し大尉に昇進。鎌倉市在住の渡辺満里子と結婚した。
展示室には海軍航空隊の白い制服と帽子、剣帯も展示されている。最晩年の大尉時代、着用していたものだ。背の高い人であったことがしのばれる。同時代の肖像写真や、白い帯に赤い糸が縫い込まれた千人針もあった。
19年10月20日、マニラで「神風特別攻撃隊」の訓示と命名式が行われ、関中佐は総指揮官に任命された。