話の肖像画

元最高裁判事・山浦善樹(2)1年で銀行を辞め、ヒモに

高校時代の文化祭。部活動で新聞班に入り、「東西冷戦」などのテーマを扱っていた(本人提供)
高校時代の文化祭。部活動で新聞班に入り、「東西冷戦」などのテーマを扱っていた(本人提供)

 〈故郷の長野県丸子町(現上田市)では、貧しい子供時代を過ごした〉

 父は住み込みの仕事をしていましたが、食べるだけで精いっぱいでした。私も鉄くず拾いで小遣い稼ぎをしたり、家で人形作りの内職を手伝ったりしていました。小学校の給食の脱脂粉乳が大好きで、同級生にもらっていました。家には食べるものがないですから。お金がないので、給食費の徴収日はいつも「忘れた」と言っていましたが、好きな女の子の前で「山浦さん、また忘れたの」と言われると、恥ずかしくて…。見かねた先生が「中身が空でも封筒ごと渡していいよ」と言ってくれたのを覚えています。そんな生活だったこともあり、とにかく東京に行きたいと思っていました。山を越えなきゃ何も始まらない、ここにいたら一生これで終わりだ、と。

 でも、進学するお金がないので、中学を出たら地元の信用金庫に就職するつもりでした。そうしたら中学の先生が奨学金の制度を教えてくれて、父の月給に匹敵する奨学金がもらえるという。それで急遽(きゅうきょ)、進学を決めました。人見知りを克服しようと、進学した県立上田高校では部活に新聞班を選びました。マンスリー版とウイークリー版を発行するのですが、学校からの補助は一切なく、売れる新聞を作るためにスポーツの結果を載せたり、高校野球の応援風景も女子生徒の写真をズームで撮るなど工夫しました。生徒会長も務めました。控えめな性格を直さないと東京に行けないと思ったのです。

会員限定記事会員サービス詳細