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「飛べる機体が2機しかない…」。陸軍航空士官学校で学び航空技術将校となり、陸軍が採用した新型の二式複座戦闘機「屠龍(とりゅう)」の部隊に配属。爆撃機などを乗り継いで日本からニューギニアのウェワクの基地に到着した梅田春雄さん(95)の目の前に広がる光景は凄惨(せいさん)だった。「空襲後の滑走路は穴だらけ。飛べる屠龍は2機のみ。大破した機体はその穴を埋めるために使われたのです」。翼を奪われた陸軍航空部隊で南洋の島を転戦、生死の境をくぐり抜けて生還した元航空技術将校の証言を、71回目を迎えた終戦の夏、現代の日本人はどう聞くだろうか。(戸津井康之)
新型戦闘機への期待と不安
双発機で機体が大きな屠龍は、その搭載能力を生かし、高度な航法装置や強力な通信機などを積載していた。偵察、爆撃、指揮…。2人乗りの機体は戦場において、さまざまな任務が期待されていたという。
「射撃に無線、航法、ときに爆撃…。私の本職は航空技術でしたが、多用途に対応するために一通りの訓練を受けていました」。梅田さんは屠龍の後部乗員となり、南洋の上空を飛んだという。
「隊長機の後部座席に乗り、慣熟飛行や船団掩護にも就きました。地形を覚えるためでもありました。その前の隊長には屠龍の陸軍への採用を決めた際の審査主任もいたんです」と梅田さんは語った。
日本本土で研究開発され、陸軍に採用されて間もない屠龍の操縦、機体の性能などを見極めるために、審査主任を務めた士官が自ら南洋の基地で隊長を務めていたのだという。