五輪・お家芸の系譜

(7)東洋の魔女、回転レシーブで頂点…女子バレーボール

【東京オリンピック 女子バレーボール 日紡貝塚(現ユニチカ)バレーボール部の練習風景】 東京五輪を目前にして大松博文監督の厳しい練習は深夜にまで及んだ 1959年から国内では無敗、1966年に敗れるまで258連勝をかさねた 東京五輪でも中核となって活躍し「東洋の魔女」と呼ばれ、金メダルを獲得した
【東京オリンピック 女子バレーボール 日紡貝塚(現ユニチカ)バレーボール部の練習風景】 東京五輪を目前にして大松博文監督の厳しい練習は深夜にまで及んだ 1959年から国内では無敗、1966年に敗れるまで258連勝をかさねた 東京五輪でも中核となって活躍し「東洋の魔女」と呼ばれ、金メダルを獲得した

 1964年の東京五輪の女子バレーボール決勝はテレビ視聴率66.8%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録した。スポーツ中継ではいまだに破られぬ歴代最高である。

 新聞に観戦記を書いた三島由紀夫はこう締めくくった。

 「日本が勝ち、選手たちが抱き合って泣いているのを見たとき、私の胸にもこみ上げるものがあったが、これは生まれてはじめて、私がスポーツを見て流した涙である」

 日本中が同じ思いだった。

 当時の流行語を並べるだけで一文ができる。「鬼の大松」と呼ばれ、「黙ってオレについてこい!」の「スパルタ練習」で「回転レシーブ」を編み出し、「東洋の魔女」を育てた。

 監督の大松博文は軍隊経験が原点になっている。若き陸軍少尉は、部下はみんな年上で「今ごろ学校出てきて、よう指揮は執らんだろう」という声が聞こえた。そこで率先垂範、身の回りのことも馬の世話も、何でも自分でやった。斥候(せっこう)も危険なところは自ら行った。まさに「オレについてこい!」。そして、インパール戦線で英軍の捕虜となり、「やるからには勝たねばならない」が身に染みた。

 昭和29(1954)年、朝鮮戦争を機に糸へん景気に沸いていた大日本紡績の貝塚工場に女子バレーボールチームが発足し、学生時代の経験を買われて監督に就任する。日紡貝塚である。

 「2年で日本一に」を掲げた猛練習は、勤務を終えた夕方から翌日の明け方まで続き、労働組合が問題視して「大松をやめさせろ」と会社に申し入れるほどだった。だが、コーチを置かず、たった一人でボールを打ち続ける姿が、選手たちの心をつかんだ。