キャシー中島に聞く

モデル時代、勝野洋との結婚、長女の死、皮膚がん…波瀾万丈の人生を赤裸々に でも涙は見せたくない

【キャシー中島に聞く】モデル時代、勝野洋との結婚、長女の死、皮膚がん…波瀾万丈の人生を赤裸々に でも涙は見せたくない
【キャシー中島に聞く】モデル時代、勝野洋との結婚、長女の死、皮膚がん…波瀾万丈の人生を赤裸々に でも涙は見せたくない
その他の写真を見る (1/8枚)

モデルとしてデビュー、その後、タレントとして活躍。俳優の勝野洋(66)と結婚し、2女1男をもうけ、絵に描いたような幸せな家族とともに過ごしてきたキャシー中島(64)。そして、キルトなどパッチワーク作品の第一人者として数々の書籍も出版するなど、マルチな活躍で順風満帆な生活を送ってきた。しかし、平成21年に長女の七奈美(享年29)が死去。自身も今年、皮膚がんを患った。波瀾万丈の半生を、今、語った。(兼松康)

《子供の頃、モデルやタレントとはかけ離れた夢を抱いていた》

小学4年のときには、手芸クラブに入っていました。スウェーデン刺繍(ししゅう)なんかをやっていましたね。小学校の卒業作文に書いた将来の夢も「手芸屋さん」。モデルやタレントになるなんて、一切考えていませんでした。

《米国人の父、日本人の母の間に生まれたが、5歳の時に父母が離婚。母1人、子1人で、独り遊びの時間が長かった》

独り遊びで待っているほか、なかったんですね。その頃から小さなものを切って張って集めたり、針で縫ったりしていました。父母が離婚した後には、横浜の石川町で育ち、10歳頃まで住んでいたのですが、近所にシャツを縫う内職をやっているおうちがあり、材木屋さんがあり、クリーニング屋さんがあり、といった感じで。シャツの切れ端をもらったり、木目のきれいな材木の切れ端をもらったり。だからそういう遊びができるものが、何となく家にあったんですね。独りで遊んでいても、みんなに声をかけられて、地域で育った感じでした。その当時はどこもそうだったんですよね。だから寂しくはありませんでした。

《中学生になり、反抗期を迎える。ハーフである自分に対する周囲の目に対し、どうにもならない思いがあった》

心の中にモヤモヤするものが生まれたんですね。何をしていても注目度が高いんです。みんなと瞳の色が違うし、髪の毛の色も違うから。目立つから、何をしても怒られて。それに対して反発心が芽生えてきたんです。母には「それはあなたが思うだけで、(ハーフであることは)持って生まれたものなんだから、素晴らしいことなのよ」と言われたんですが、実際にみんなの私に対する態度は違っていたんです。それで母にも反発するようになって、同い年ぐらいの仲間と遊ぶようになったんです。ザッツ不良の世界ですよね(苦笑)。ただ、母のことは愛していましたので、学校にはちゃんと行くんですよ。それでも学校から帰って、着替えて遊びに出ては、夜の11時や12時まで遊んでいましたね。

《遊びに行く先は横浜の繁華街。当時の横浜には、流行の最先端があった》

横浜が輝いていた時代。ファッションも音楽も、流行の全てが横浜からスタートしていたんですよ。出かけるときにはミニスカート。それを見た母が「あなた、それはスカートっていうもんじゃないわよ。腹巻きが下に落ちてきたみたいな感じ」なんて話していましたけど、そんな短いスカートに、白いブーツをはいて。髪を長くして、踊りに夢中になっていましたね」

《踊っていたのはクラブ、ディスコ。いや、当時は「ゴーゴー喫茶」という場所に出かけていた時代だ》

本牧の「ゴールデンカップ」や「イタリアンガーデン」に行っていました。米兵たちが好んで行くお店で、ファッションも音楽も踊りも一番新しかったので。当時はまだ15歳でしたから、みんなの妹分みたいな感じでした。

《そんなキャシーに注目した人物がいた。その人がモデルへの道を進むきっかけとなる》

会員限定記事会員サービス詳細