竹島を考える

「アシカ絶滅は日本のせい」は捏造…韓国の定説に韓国紙が異議、乱獲し精力剤にしたのは自国だ

しかし、竹島問題と関連してアシカが論じられると状況が違ってくる。

島根県竹島問題研究会が2014年に刊行した『竹島問題100問100答』では、韓国の不法占拠時(1954年)には200~500頭のアシカが竹島に生息していたが、1970年代半ばを最後に目撃情報が途絶え、2010年に「韓国政府が絶滅宣言を行う」との報道がなされたことなどを指摘した。

これに対し、韓国の慶尚北道独島史料研究会は「韓国ではアシカの油は採取せず、皮も使わないので、独島のアシカを滅亡させたのは日本だ」と反論したのだ。

機関砲で撃ち、イカ漁のため追い払う

だが、この反論は事実と違う。チョウ記者は、竹島のアシカが絶滅した背景について、「アシカの『海狗腎(かいくじん)』(生殖器)と肉を得るためで、独島を警備していた隊員が(アシカを狙って)独島の東島頂上から機関砲を撃ち、射撃訓練をしていた」とした。

さらに、隊員の中には、「海狗腎を政府の高官や軍の上層部に上納していた」と証言する者もいたという。

また、竹島周辺では韓国によるイカ漁などの漁業が盛んになり、集魚灯近くにアシカが出現すると魚が逃げるため、漁師らが追い払ったという。

このように竹島に群棲していたアシカは、韓国側が乱獲したことに加え、漁師によって棲息地から追い出され、その繁殖地を失って絶滅した-というのが史実に近い。

多様な用途あったアシカ

慶尚北道独島史料研究会は「韓国ではアシカの油は採取せず」とするが、それも事実ではない。

明治の探検家、松浦武四郎の『竹島雑誌』(1871年刊)では、「朝鮮人これを猟せば/油を得る」としている。アシカには、さまざまな用途があった。

それを示しているのが、2012年8月19日付『中央日報』である。同紙は、「独島守備隊が武器を調達する際、釜山のヤンキー市場に行き、アシカ1頭と引き換えに拳銃と小銃を取得した」と報じている。これは、アシカが売れることを知っていたからだ。

チョウ記者によると、1960年代、警察署長の求めに応じ、欝陵島の金某氏がアシカ1頭を捕獲すると、お礼に「麦を2叺(かます)(1叺=76・5キロ)ももらった」という。この警察署長が求めていたのはアシカの海狗腎で、朝鮮半島ではアシカの生殖器を滋養強壮剤としていたからである。

新羅時代にも存在したアシカ猟

アシカ猟の歴史は古い。朝鮮時代の医師・許浚(ホ・ジュン)が著した『東医宝鑑』(1610年成立)では、「新羅国、海狗の外腎(がいじん)なり」として、新羅時代にも存在したとしている。

『東医宝鑑』の「湯液篇」では、アシカを「膃肭臍(オットセイ)」と表記し、明代の医師・李時珍の『本草綱目』(1578年成立)では「膃肭臍」の一名として「海狗腎」を挙げ、「膃肭獣」を「海狗」としている。

アシカの生殖器が海狗腎とされたのは、海狗の「腎(性器)」だったからである。

『東医宝鑑』では、膃肭臍の棲息地として江原道の平海郡を挙げ、膃肭臍は「甚だ貴く得難し」としている。そのため、『世宗実録・地理志』(15世紀成立)の「平海郡」条では、膃肭臍を「薬材」に分類したのである。『新増東国輿地勝覧』(16世紀成立)になると、平海郡の「膃肭臍」は「海獺(うみうそ、アシカ)」とされている。当時、アシカは膃肭臍だけでなく、「海狗」とも「海獺」とも呼ばれていた。

アシカ絶滅の経緯が史実究明につながる?

だが、朝鮮時代のアシカの棲息地は、平海郡や江戸時代に鳥取藩米子の大谷・村川両家がアシカ猟をした欝陵島だけではなかった。

『秋江先生文集』(「遊金剛山記」)によると、朝鮮時代の文臣・南孝温は、杆城郡の清澗駅近くや襄陽の海辺でも海獺の群鳴に遭遇している。そのアシカもまた、時代とともに姿を消していった。

1976年8月、韓国・梨花女子大学の調査チームが竹島で調査した際に、アシカの生息が確認された。その時、韓国内ではアシカの保護が叫ばれたが、実現しなかった。

ここでチョウ記者が伝えたかったのは、「竹島のアシカを絶滅させたのは日本だ」とする虚偽の歴史を捏造(ねつぞう)し、日本を非難すれば、国際社会から韓国は「嘘つき」の烙印(らくいん)を押されてしまう。それでは竹島の領有権を争う際に、不利になる、ということだった。

だが竹島のアシカが絶滅した事実を究明していけば、やがて竹島を韓国領とする「歴史認識」についても、史実を究明しなければならない時が来る。チョウ記者は言外にそう語っているのかもしれない。

 (下條正男・拓殖大教授)

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