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プロ野球のスカウトの極意が「誠意」といわれた時代、一人の天才を射止めた男がいた。「誠意のかたまり」と評されたオリックスのスカウト、三輪田勝利。全国的には無名だった愛工大名電(愛知)のイチロー(本名・鈴木一朗)を発掘、1991年のドラフト会議で交渉権を得た。投手だったイチローの比類なき打撃センスを見抜き、野手として入団させた。ところが、それから7年後、難航したある入団交渉に悩み自殺した。三輪田の慧眼(けいがん)がなければ、イチローは別の野球人生を歩んでいたかもしれない。日米通算安打で「世界一」の金字塔を打ち立てたイチローの快挙を天国でどれだけ喜んでいることだろう。
当初は「3位指名」だった
1991年のドラフト会議。イチローはオリックスから4位指名された。三輪田をはじめとするスカウト陣の要望は3位での指名だった。1位は田口壮(関西学院大)、2位は萩原淳(東海大甲府)、次いでイチロー。4位指名に下げる決断をしたのは当時、球団代表だった井箟重慶だった。イチローの実力や球団スカウトの眼力を甘く見た判断ミスについて、著書『プロ野球もう一つの攻防』(角川SSC新書)に明かしている。
「この先うまく育つかわからない高校生選手よりも、即戦力として期待できる社会人選手のほうがいいと考えたのだ。(中略)ドラフト会議の席上では、正直なところイチローを獲得できたことに大きな感慨はなかった」。イチローのお膝元・中日にも獲得の動きはあったが、下位での指名だったため4位でも競合しなかったという。