【九州の礎を築いた群像】平田機工編(5)上場 - 産経ニュース

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九州の礎を築いた群像

平田機工編(5)上場

ジャスダック上場を祝う平田機工の平田耕也会長(左)と米田康三社長(左から2人目)ら=平成18年12月14日
ジャスダック上場を祝う平田機工の平田耕也会長(左)と米田康三社長(左から2人目)ら=平成18年12月14日

 ■「日本のものづくりを牽引するぞ」 個人商店から「社会の公器」へ

 「これまで後継者を探してきた。決めた。あなたに譲る」

 平成16年12月ごろ。平田機工2代目社長の平田耕也(やすなり)(1928~2012)は、熊本県植木町(現・熊本市北区)の熊本工場で、隣にいた人物に突然、こう告げた。

 予想だにしない発言だった。大和証券SMBCプリンシパル・インベストメンツ顧問、米田康三(68)は思わず足を止めた。

 無理もない。米田が耕也と初めて会ったのは、ほんの1カ月前だった。

 「立派なご長男もいるじゃないですか。なぜ、私なんですか?」

 「あなたは経験がないと言うだろう。でも、工場をしっかり見ていた姿に、『この人なら託せる』と思ったんです」

 耕也は言葉を続けた。

 「私には父から引き継いだ夢がある。この会社の株式上場です。これまで10年間、準備をかけたができなかった。それをなんとかしたい。長男はまだ、社長業は早い」

 「…ちょっと考えさせてください」

 米田は、耕也をなだめるように言って、熊本を後にした。

 当初、その気はなかった。米国の弁護士と一緒に、投資ファンドを設立する計画を進めていたからだ。

 数カ月間、熟考した。そして熊本に向かった。

 「分かりました。お引き受けします。ただし、本気ですか? これまで平田機工は、あなた方創業家の『マイカンパニー』だった。上場によって株主の持ち物、『ユアカンパニー』になるんです。つまり社会の公器になるんです。その覚悟はありますか?」

 耕也は深くうなずいた。

 「これからの日本は、今までのように、ポンポンと物を売るのは続かないだろう。残るのは技術力だ。私はいずれ、熊本に生産技術に関する研究所を作り、世界中から技術者を集めたい。そこで『平田イズム』を世界標準として広めるんだ。そうやって平田は生き残る。そのためにも上場が必要だ」

 今度は米田がうなずく番だった。

 「社長の、平田機工のDNAを、私なりに培った経験の『衣』で包みこみ、補完します。日本のものづくりのために、平田機工を作り替えてみせます」

                   × × ×

 米田はもともと、銀行マンだった。住友銀行(現・三井住友銀行)の執行役員などを経て、米国系のGEキャピタルグループ、そして大和証券SMBCプリンシパル・インベストメンツに移った。

 金融機関時代、特に非上場企業に対する投資、プライベート・エクイティ(PE)の分野に明るかった。PEは、投資家から集めた資金を非上場企業に出資し、リターンを得る。とはいえ、短期的な売買ではない。経営にも関与し、上場など企業価値を高めた後に株式を売却するという中長期的な投資手法だ。

 16年11月、米田はPEの仕事の一環で九州にいた。ドラッグストアなど2件の大型投資案件があった。その途中で、知人に平田機工の存在を聞かされた。

 「面白い会社だし、工場をのぞいてきたら?」

 米田は学生時代は理系で、ものづくりに関心があった。早速、連絡を取って熊本に向かった。耕也も快く、対応してくれた。隅々まで工場を見て回り、耕也を質問攻めにした。

 その後、耕也から声を掛けられ、熊本や東京で3、4回顔を合わせた。1カ月もたたないところで切り出されたのが、社長ポストの話だった。

 米田は17年6月、3代目社長に就任し、ものづくりの世界に飛び込んだ。至上命題は上場だった。

 道のりは想像以上に険しかった。企業体質を整え、市況が上向くのを待たなければならなかった。

 社長就任直後、取引先の状況を知ろうと、社員に営業日誌を持ってこいと命じた。

 「日誌はありません。取引先の状況は、すべて担当役員の頭の中にあります」

 思いがけない返事に、米田は絶句した。聞けば、数年先の企業像を描く中期経営計画すらなかった。

 「一筋縄ではいかないぞ。経営体質そのものを変えなければ…」

 平田機工は平田恒一(つねいち)(1900~1982)が創業し、恒一の息子の耕也が28年間率いてきた。

 耕也は見事な手腕を発揮し、平田機工を世界を相手に取引する企業に育てあげた。

 半面、耕也の存在は絶対的になっていた。まさに「個人商店」だった。耕也をトップに、その他の社員は全員横一線。米田には、経営学でいう「文鎮(ぶんちん)型組織」に見えた。

 耕也という個人の才覚に依存した会社だった。

 「これでは上場しても、会社は成り立たない。この先、たとえ凡人が経営しても会社が発展する仕組みを作らないといけない」

 米田はまず、執行役員制度を導入した。会社の方向性を決断する「経営」と、実際の仕事をこなす「業務執行」の機能を分けた。

 18年度を初年度とする3カ年の中期経営計画を策定した。

 また、社内の会議では、出席者全員が、必ず発言するようルール化した。

 これまでの企業風土では、耕也の決断がすべてだった。役員を含む社員は、「ノー」と言わず、それに従うばかりだった。

 これでは、社員の中から当事者意識がなくなってしまう。「誰かが決めて、誰かがやってくれる」。そう考えるようになる。

 「たとえ『できません』でも構わない。はっきり言ってほしい」

 米田は役員らを通じ、社員に呼びかけた。

 米田の方針に、会長となっていた耕也は、まったく口をはさまなかった。平田機工は徐々に、組織として強くなっていった。

 18年3月期決算では、過去最高の売上高377億円も確保した。上場が現実味を帯びた。

 米田は組織改革と同時に、IR(投資家向け広報)に着手した。上場する以上、株を買ってもらわないといけない。

 しかし、平田機工の顧客は国内外のメーカーだ。顧客の生産設備や計画という「秘中の秘」を知る。顧客とは厳しい守秘義務協定を結ぶ。

 それだけに、投資家や株主に業績予想を言うのも難しい。

 米田をはじめ、公開準備室の社員は、株式を購入すると思われる潜在的な投資家50社を訪ね歩いた。そして「平田機工は必ず成長します」と説いて回った。

 米田は上場先には、新興市場向けのジャスダックを選んだ。主幹事証券会社は新光証券(現・みずほ証券)に決まった。

 18年12月14日、JR東京駅前にある新光証券の会議室に、耕也や米田ら関係者がいた。ジャスダック上場の日だった。後は、いくらの値が付くかだった。

 午前9時15分。会議室の大型テレビに初値が出た。「2620円」。公募価格(2200円)を19%上回った。

 その瞬間、耕也は安堵(あんど)した表情で、米田や新光証券関係者と抱き合った。

 そして、妻に電話をかけた。「お母さん、ついにやったよ。初値がついたよ」。みな笑顔だった。

 上場から、数日のうちに株価は2900円台に上がった。

                   × × ×

 20年9月にリーマン・ショックが発生し、世界的な金融危機が起きた。平田機工の顧客も大打撃を受けた。中には「発注していた案件を、無期限で先送りにしたい」という顧客もあった。

 それでも米田が作った強固な組織は、危機を乗り越えた。

 23年4月。米田は耕也の長男で副社長の雄一郎(54)にバトンタッチした。ちょうど次の中期経営計画を策定する年だった。

 「この先3年の計画を私が作ったら、雄一郎君は、他の人の作った計画を実施することになるからね」

 米田は会長や相談役として残ることもせず、平田機工からすっぱり身を引いた。脳裏には、自身の改革にくちばしを入れなかった耕也の姿があった。

 今度は雄一郎が次の「夢」を追い始めた。

 社長就任時、平田機工の時価総額は100億円台に乗ったくらいだった。極言すれば、100億円で株を買い占められるということだ。

 上場企業は常に、敵対的買収に備えなければならない。

 「利益を上げ、企業価値・株価を高めなければ、社員を守れない」

 雄一郎は時価総額1千億円を目標に掲げ、業績向上に突っ走った。平成28年を「IR強化年間」に定めた。

 雄一郎の不安は、決して杞憂ではない。

 経営再建中のシャープは今年2月、台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業に買収されることが決まった。日本経済を支えてきた電機メーカーの一角が、外資の傘下に入る。日本のものづくりをめぐる環境は大きく変化しつつある。

 「このままでは日本のものづくりが、どんどんなくなるんじゃないか? 生産設備というわが社の技術で、日本メーカーをつなげるぐらいの気概でやらないとだめだな」

 4月。地震が熊本を襲った。雄一郎は被災した故郷の街や企業を目の当たりにした。黙っていられなくなった。

 「日本の前に、まず熊本を救う」。6月23日、本社を東京から創業地の熊本市に移転した。県内の工場で新たに100人以上を有期雇用することを決めた。

 リヤカー製造に始まった平田機工は、世界に冠たる生産設備メーカー、いわば「工場の工場」に成長した。

 4代の経営者は、一つの意志を貫いた。それは「日本のものづくりを絶やさない」という強い思いだった。

 「日本のものづくりを牽引(けんいん)し、東証1部への上場を果たす」

 雄一郎は、そんな「夢」にひた走る。(敬称略)=おわり

                   ◇ 

 この連載は村上智博が担当しました。