中国の文化大革命(文革)の時代、海外に逃亡する道を選んだ人々がいた。公式統計はないが、数十万人は下らないと推測する研究者がいる。捕まれば死刑になることは覚悟の上で、自由な世界を求めた。
中国を代表する作曲家でバイオリン奏者の馬思聡(1912〜87年)は、音楽修業のため11歳のときフランスに渡り、パリ音楽院などで学んだ。帰国後、「揺籃(ようらん)曲」「チベット音詩」などの名作を発表した。49年の新中国成立後、中央音楽学院の初代院長に任命されたが、文革開始と同時に悪夢が始まった。
「価値を創造しない音楽家は、労働人民の血を吸って生きている」と紅衛兵にののしられ、批判大会で「吸血鬼」と書かれたプラカードを首にかけられた。学校の庭で草むしりをさせられていたとき、「名字が馬だから」と草を食べるよう強要されたりもした。
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67年1月、馬は妻子と広東省から香港への密航船に乗った。ブローカーに支払った額は、当時の中国人労働者の生涯賃金を超える5万香港ドル(現在のレートで約66万円)。検問が甘くなる豪雨の深夜を選んで出発し、香港政府の管轄水域に入ったことを確認すると、胸に着けていた毛沢東バッジを剥がして海に投げ捨てたという。