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※この記事は「国会議員に読ませたい敗戦秘話」(産経新聞出版)から抜粋しました。ネットでの購入はこちらへ。
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梅雨の蒸し暑さに加え、死臭や汚物臭が漂う暗い壕の中で無数の人がうごめいていた。
「水、水を」
「おしっこ、おしっこ…」
戦闘で負傷し、手足を切断した負傷兵たちはうめき声を上げながら、18歳だった島袋とみのモンペの裾をつかんだ。「とにかく今を必死で生きなければ」。島袋は自分にそう言い聞かせながら介護を続けた。
沖縄師範学校女子部本科に通っていた島袋が「ひめゆり学徒隊」として那覇市東南5キロにある南風原陸軍病院第一外科7号壕に配属されたのは、卒業を目前に控えた1945年3月23日夜。米軍が慶良間(けらま)諸島などを空襲し、沖縄侵攻を始めた日だった。
病院といっても丘陵地に横穴を掘った壕や、ガマと呼ばれる自然の洞窟に寝床を作っただけ。軍医や看護婦、衛生兵は約350人。ここに島袋ら15~19歳の女学生222人が教師18人に引率されて看護補助要員として動員された。
「兵隊さんの声を子守歌だと思いなさい」。看護婦にこう言われながら、島袋らは負傷兵の食事や下の世話に追われた。