九州の礎を築いた群像 平田機工編

(4)地域貢献

工場に細川護煕氏(右)を案内する平田耕也氏(平田機工提供)
工場に細川護煕氏(右)を案内する平田耕也氏(平田機工提供)

 ■「熊本の工業に光を当てるんだ」世界で戦う企業育成

「熊本に偉大な田舎をつくりましょう。熊本の産業振興は先端産業でいきます。まちづくりとセットなんです」

 昭和58年2月に熊本県知事に就任した細川護煕(78)は連日、地元経済界の要人と接触し、話を持ち掛けた。

 その中の一人、平田機工2代目社長の平田耕也(1928~2012)は「それはいい。一緒にやりましょう」と応じた。

 40代の若手知事が訴えたのは、中曽根康弘政権が打ち出した「テクノポリス構想」の活用だった。

 戦後復興を支えた「重厚長大」から、最先端の「軽薄短小」への産業構造の転換を図る。その上で、先端産業の集積地が核となり、周囲に新たな街が生まれる。アテネなど古代ギリシャの都市国家「ポリス」をイメージしたネーミングだった。

 高度技術工業集積地開発促進法に基づくテクノポリス構想に細川は飛びついた。

 熊本県は地下水と、比較的安価で優秀な労働力に恵まれている。全国9カ所の「テクノポリス」の一つに選ばれた。

 一方、耕也にとっても、願ってもない話だった。

 熊本県内には昭和40年代、半導体工場の立地が始まった。42年に三菱電機が熊本市内にIC(集積回路)の工場を、44年にも同市内にNECが進出し、LSI(高密度集積回路)の生産を始めた。

 それでも耕也は物足りなく感じていた。

 平田機工を率いる耕也は常日ごろ、「熊本は農業県だ。そのせいか工業に日が当たっていない」とやるせない思いを抱いていた。

 先端産業を中心に、まちをつくる-。わが意を得た耕也は、テクノポリス構想実現に突き進んだ。

 58年に発足した熊本テクノポリス財団(現・くまもと産業支援財団)の常務理事に就任した。理事長は細川だった。耕也の任務は、構想の普及と、必要な資金集めだった。

 「技術は10年で成長し、その先10年で衰退する。20年しかもたない。常に新しい技術が誕生してこそ、工業がずっと発展し、まちづくりも進むんです」

 地元政財界を回り、こう口説いた。熊本人の県民性は「もっこす」(頑固)と同時に、「わさもん」(新しいもの好き)といわれる。耕也はこの、わさもんに訴えた。

 耕也本人が「まず隗より始めよ」と6千万円を寄付したこともあり、経済界なじみの料亭の女将らにも、構想への賛同が広がった。

 民間からの寄付は最終的に20億円を超えた。全国で9カ所指定されたテクノポリスの中で、民間からの寄付金は最多だった。

 寄付金も使い、熊本空港に近い益城町で企業団地の建設が始まった。生産に加え、研究開発機能を持つ「テクノリサーチパーク」を目指した。

 パークには、富士通やオムロンなど全国的なハイテク企業が進出した。

 この流れに乗って、地場でも異業種から半導体産業に参入する企業が相次いだ。半導体産業の裾野が広がった。

 耕也ら熊本テクノポリス財団は、最先端技術を取り扱う電子応用機械技術研究所(電応研)をつくり、研究者を集めた。

 耕也は、熊本大学工学部を益城町に移転するアイデアをぶち上げた。

 「知事、小手先では前に進まないんです。熊大の知的財産を利用しない手はない。熊大に頭を下げてもらえませんか」

 耕也は細川に頼んだ。

 それでも熊大側は、県庁所在地から郊外への移転に難色を示した。耕也は熊大学長の松山公一に、直接かけ合った。

 結局、工学部の丸ごと移転は実現しなかったが、熊大はパーク内に、サテライトキャンパスを作った。

 構想は順調に進んでいるかのように見えた。関係者はバラ色の未来を想定した。

 だが、耕也は限界を感じていた。

 「企業誘致に力を入れるだけでは、外から来た企業に、熊本の優秀な人材を奪われるだけではないか…」

 進出企業と地場企業間に存在するギャップを感じた。

 平田機工は、家電メーカーなどの生産ラインを生産する。顧客は、熾烈な競争を生き残ってきた企業ばかりだ。

 「1円でも安く」「1%でも高効率を」。世界で戦う企業の厳しさは身に染みていた。

 「熊本に進出したホンダや日立造船は、世界を相手に厳しい競争にさらされてきた。やはり、世界を肌で感じないとダメだ」

 地場企業が育たなければ、人材流出が進む。耕也の狙いである、熊本での「工業育成」は遠のく。

 耕也は平成4年に始まるテクノポリス構想の第2期計画を練る熊本県の委員会の座長となった。

 「目の大きな網をぶわーっと打って、大きな魚を捕まえようとした。これまでは、それでよかった。でも、今からは目を小さくし、引っかからなかったものを引っかかるように変えないといけない」

 耕也らは、大手企業と地場企業が、同じ場所で切磋琢磨する環境を整えようと、菊陽町に工業団地をつくる構想を打ち出した。県内最大規模の広さ100ヘクタールの工業団地に、地場企業の進出を促した。

 だが逆風が吹いていた。3年にバブルが崩壊し、日本は長く続く不況に突入した。

 大手と地場の競争どころか、企業活動が萎縮した。

 耕也はそれならばと、産学官の共同研究に力を入れた。

 科学技術庁(現・文部科学省)や通商産業省(現・経済産業省)から数億円ずつ補助を受け、共同研究の態勢を築いた。その成果は徐々に出た。金属部品加工の桜井精技(熊本県八代市)は、共同研究を基に、半導体・液晶の製造装置メーカーに転換した。

 耕也はすべて、県と二人三脚で作り上げた。

 熊本県テクノポリス推進班長の高口義幸(61)は8年、植木町(現・熊本市北区)にある平田機工の工場にいた。

 行政側の担当者として、耕也にあいさつしたところ、「まず平田の工場を見学しなさい」という話になったからだ。

 耕也は高口より30歳近く年上だ。それでも、耕也は直接、工場を案内した。その後、身ぶり手ぶりを交えながら、こう説いた。

 「地場企業が工場をつくるなら、まず、必要とする何倍もの広さの土地に移転させた方がよい。広い土地に見合った仕事を取るように、がんばらなきゃって思うでしょ」

 高口は当初、恐る恐る耕也と出会った。上司から「平田さんは怖い社長だからね」と聞かされていたからだ。

 確かに厳しい経営者だった。相手の言うことは鵜呑みにせず、必ず「僕はこう思うよ」と切り返した。しかも「イエス」か「ノー」かを、はっきりさせた。

 高口は耕也に心酔した。

 7年、熊本県工業会連合会が発足し、耕也が初代会長に就任した。名実ともに熊本県の「工業界」を耕也が引っ張ることになった。

 耕也は早速、240を数える会員企業の社長らを集め、意識改革を促した。

 その努力もあって、熊本は「シリコンアイランド九州」の中核地となった。

 17年3月29日。熊本テクノポリス財団から改名した「くまもとテクノ産業財団」の理事会に耕也はいた。いつものようにゆっくりと出席者を見回し、退任の挨拶を始めた。

 「平田機工は熊本の企業です。熊本の夢を常に創っていきたい」

 そして、こう結んだ。

 「出席者の皆さん、今後の熊本を支える若い人に、ご支援たまわりたいと思います」

 熊本県工業会連合会の会長も引退し、耕也は表舞台から去った。

 だが、耕也イズムは残った。

 高口は22年、県産業支援課長として、今後10年間の「県産業振興ビジョン」をまとめた。高口には、どうしても盛り込みたかった1節があった。

 「ニッチトップ企業の湧出の主役は中小企業」

 「ニッチ」とは隙間のこと。もともとは生物学で「生態学的地位」すなわち、ある生物が存在する「自分の適所」を示す。

 小さな市場でもよいから、その場に適した企業に進化し、トップの地位に座る企業を育成する。耕也の口癖でもあった。

 「ニッチトップの技術を身に付けることこそ、中小企業の本来あるべき姿だ。中小企業を育成し、第二の平田機工を作っていかなくてはいけません」

 耕也の口癖がいつしか、高口の口癖となっていた。(敬称略)

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