話の肖像画

指揮者・小泉和裕(2)「出るからには優勝を」師の言葉に奮起

昭和61年、師の山田一雄氏(右)が日本芸術院賞を受け、演奏会の楽屋を訪ねる。左は山田御秩子夫人 (c)木之下晃
昭和61年、師の山田一雄氏(右)が日本芸術院賞を受け、演奏会の楽屋を訪ねる。左は山田御秩子夫人 (c)木之下晃

 滋賀の近江八幡で畳表を扱う家に生まれた父も、京都の商家育ちの母も、音楽と特にかかわりがありませんでした。それでも、お坊ちゃん気質がある父は繊細でおとなしく、声が良く、謡(うたい)が得意でした。僕は両親の理解を得て、夢中になって合唱団で歌い、ピアノを習うこともできました。スポーツも同じくらい大好きで、中学では最初に野球部へ入りましたが、音楽の先生に勧められ、音楽の勉強を始めました。

 〈生のオーケストラに触れ、指揮者を志す〉

 中学校の芸術鑑賞教室が、かつての京都会館(現在のロームシアター京都)で開かれ、京都市交響楽団の演奏を聴きました。開館間もないホールで、生のオーケストラの響きが大きな空間いっぱいに広がっていくことに感動しました。その頃、京響は学校のグラウンドなどを会場に、屋外で音楽を聴かせてくれました。自宅の向かいにある小学校にも回ってきて、音楽に対する思いが強くなっていきました。

 当時は全国でも珍しい音楽科のある京都市立堀川高校(音楽科は現在、京都堀川音楽高校として独立)に進み、ピアノと声楽を学びました。京響の演奏会に通い、ラジオをむさぼるように聴きながら指揮者になりたいという思いを募らせました。後に京響の音楽監督にもなる山田一雄先生の元に押しかけ、「弟子にしてください。指揮の勉強をさせてください」とお願いしました。前代未聞のことと先生は当惑されたようです。

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