【福嶋敏雄の…そして、京都】(61)藤原定家 俗臭「スネ夫」な歌道の宗匠 二流の公家、出世も遅れ皮肉屋に(1/2ページ) - 産経ニュース

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福嶋敏雄の…そして、京都

(61)藤原定家 俗臭「スネ夫」な歌道の宗匠 二流の公家、出世も遅れ皮肉屋に

 嵐山から見て、流れが急な保津峡をはさんだ対岸の山が、小倉山である。春の陽をあび、はじけるようなミドリにつつまれていた。見る角度によって、山容は椀(わん)を伏せたようにも見えるが、とても「秀麗」とは言いがたい。古刹(こさつ)が多いこの界隈(かいわい)でなければ、どこにでもある山である。

 今から800年ほど前、この山のふもとに「時雨(しぐれ)亭」という山荘があった。「歌聖」と呼ばれた藤原定家が正治元(1199)年ころに作った別業(別荘)である。山荘の規模は分からない。山荘があった場所は、定家の日記『明月記』によって、類推することができる。

 この山の西麓に、常寂光寺と二尊院という古刹がならんでいる。観光パンフには、どちらの寺にも境内に時雨亭があったと書かれている。

 常寂光寺の境内に入ると、正面に仁王門があり、その右手の苔むした平地が時雨亭跡とある。どうも違うような気がする。苔がむしているように、陽があまり当たらない湿った崖下の土地であり、肝心の小倉山が望めないからだ。

 ついでに二尊院にも足を向けたが、その途中に台地状の原っぱがあった。小倉山が望める場所で、時雨亭はこのあたりではないかと、勝手に想像力がはたらいた。

 嘉禎(かてい)元(1235)年4月、定家は親戚(しんせき)筋の歌人、宇都宮頼綱から、今ふうに言えば、こんな頼みを受けた。「定家はん、うちの別荘のフスマに、万葉からの歌人の歌を1首ずつ、全部で100首ほど書いてくれはりまへんか。あんさん、どうせヒマでっしゃろ」--

 すでに70歳をこえていた定家は固辞するが、頼綱の熱意におされ、しぶしぶ承諾する。時雨亭にこもり、天智天皇から当代にいたるまでの100首を選んだ。

 「小倉百人一首」である。もちろん自分の歌も入れた。

 来ぬ人を まつほの浦の夕なぎに  焼くや藻塩の 身もこがれつつ

 「松」と「待つ」をかけた「まつ」、「藻塩」と「身」を「焼く」というレトリックは、今から見ると、いかにも平凡である。「絢爛(けんらん)・華麗・巧緻」などと評される定家の作風は、どうにも性(しょう)にあわない。実際にその場所に行って見た嘱目(しょくもく)の歌は少なく、想像力だけで、コトバとコトバを組み合わせただけのように思える。

 だが『明月記』によって浮かびあがる定家の人間性にはひかれる。そこには俗臭ふんぷんたる男の姿があった。