話の肖像画プレミアム

加藤登紀子(72)=歌手=「3人の幼子を抱えて満州から命からがら引き揚げた母から学んだことは…」

【話の肖像画プレミアム】加藤登紀子(72)=歌手=「3人の幼子を抱えて満州から命からがら引き揚げた母から学んだことは…」
【話の肖像画プレミアム】加藤登紀子(72)=歌手=「3人の幼子を抱えて満州から命からがら引き揚げた母から学んだことは…」
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戦争生き抜いたエディット・ピアフと母を重ねて…

 〈70年前の昭和21(1946)年、満州(現中国東北部)ハルビンから母子4人で命からがら引き揚げてきた。まだ3歳にならない末っ子の登紀子さんに「自分で歩きなさい、そうしないと死ぬのよ」と叱咤した母、淑子(としこ)さんは今月で101歳。エディット・ピアフ(「愛の讃歌」「バラ色の人生」で知られる仏シャンソン歌手)は同じ1915年の12月にパリで生まれている。戦争の時代をたくましく生き抜いた女性たちの思いを重ねて、いまピアフを歌う〉

 終戦の年、ソ連軍(当時)が満州に攻め込んできたとき、父(幸四郎さん=平成4年死去)は戦争へ行ったまま。守ってくれる国も部隊もなくなり、ハルビンに残された30歳の母は3人の幼子を抱えて自分を奮い立たせた。「私の生き抜く力と判断だけが頼りなんだ」って。そこから母の本当の人生が始まる。仕事を、食料を懸命に探し、略奪に来たソ連兵にも毅然と対応した。一対一の人間同士なら必ず分かりあえる。母の言葉は私の教訓になりました。

 昭和56(1981)年にハルビンで初めてコンサートを開き、母と一緒に35年前に貨物列車で引き揚げたときと同じ線路を逆に走りました。幼すぎて覚えているはずがないのに、ハルビン駅の駅舎やモスグリーンのホームの天井を見たとたん、「あぁ懐かしいな」って。記憶のどこかに刻まれていたのかもしれません。

 そのとき残留孤児の方と会う機会があり、めったに泣かない母が彼らを強く抱きしめて号泣しました。「よく生き抜いたね。あなたはお母さんに捨てられたんじゃない、そうしなければあなたが生きられなかったから…」と。一歩違えば私がそうなっていたかもしれない。ハルビンでの避難生活と引き揚げは私の原点ですね。

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