洛北・岩倉の最深部ともいうべき丘陵地は、つらなる山々によって「逆U字」形にかこまれている。濃い緑の匂いをふくんだ風の通り道になっているため、夏でもそんなには暑くはない。湧き水も豊富で、かつては山すその岩盤のいたるところから、小さな滝が流れ落ちていた。
古来、岩倉は都人(みやこびと)の保養地であった。現在もお年寄りの療養施設や病院が多い。精神医療施設もある。
近代医療が入ってくる前まで、滝の水を浴びたり、飲んだりすると、精神の病に効くと信じられた。「滝治療」、あるいは「水治療」と呼ばれた。
平安末期の史書『扶桑略記』には、精神を病んだ高貴な女性がこの地にある大雲寺にこもり、「霊水」によって平癒した、と記されている。以来、岩倉は精神を病んだ人たちのためのコロニーであった。
昭和3(1928)年5月、紀州・田辺から、ひとりの若者が岩倉実相院ちかくの精神医療施設に連れてこられた。南方熊弥、ちょうど20歳であった。「巨人」と称された民俗学者で博物学者でもあった南方熊楠の長男で、連れてきたのは熊楠の知人であった。
熊弥はその4年前、高知高等学校(現・高知大学)を受験するために、高知におもむいたさい、旅宿で突然、精神に異常をきたした。自慢の独り息子だっただけに、熊楠のショックは大きかった。田辺の自宅で世話をしていたが、症状はだんだん悪くなった。知人宛の手紙には、こう書かれている。
「拙児またまた悪くなり、戸外に出て知らぬ家に入り、盆栽の草木を持ち出し、また人を打ち蹴るなどのことあり。(略)小生も大いにくたびれており申し候」
熊楠一家4人の写真がのこされている。熊弥はまだ小学生で、魁偉(かいい)な表情の熊楠の左側で、ちょこんと立っている。いかにも聡明そうな表情で、熊楠に似た大きめの目でキッとカメラをにらんでいた。
発病の原因は不明である。「熊楠の息子」であることが精神的な重荷となったともいわれ、病名は統合失調症とみられる。