【渡部裕明の奇人礼讃】武田信広(下)「アイヌの蜂起」がもたらした覇権(1/3ページ) - 産経ニュース

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渡部裕明の奇人礼讃

武田信広(下)「アイヌの蜂起」がもたらした覇権

整備が進む上之国勝山館跡(上之国町サイトから http://www.town.kaminokuni.lg.jp/)
整備が進む上之国勝山館跡(上之国町サイトから http://www.town.kaminokuni.lg.jp/)

 若狭国(福井県西部)の名門・武田氏の出身か、あるいは下北半島の小土豪か? 出自は謎に包まれているものの今回の主人公、武田信広(1431~94年)は長禄元(1457)年、本州からはるばる蝦夷地(北海道)へと逃れてきた。新天地で再起を期す決心だったのだ。そして、時代は「北海道の戦国時代」へと突き進んでゆく。信広はどう戦い、覇権への道を歩んだのだろう。

 ●コシャマインとの戦い

 北海道で最も古い歴史書とされるのは江戸時代初期の正保3(1646)年、松前景広(まつまえかげひろ、松前藩初代・慶広の六男)が記した「新羅之記録(しんらのきろく)」である。「北海道の日本書紀」ともいわれるこの書物に従い、信広の奮闘ぶりを見ていくこととしたい。

 このころ、渡島半島南部には和人の設けた館が12あった(道南十二館=どうなんじゅうにたて)と書かれている。東端の志濃里館(しのりのたて、函館市)から、時計回りに半島西部、日本海側に面した上之国(かみのくに、檜山郡上ノ国町)花沢館まで並んでいる。12という数が正確かどうかは別として、それぞれの地域に土豪が割拠していたということだろう。

 信広がまだ、本州にいた康正2(1456)年春、彼の運命を変えるできごとが志濃里で発生していた。和人の経営する鍛冶屋にアイヌの青年が訪れ、注文していた小刀を受け取ろうとして、価格をめぐって鍛冶職人と口論となった。そして職人は激高のあまり、青年を小刀で殺害してしまったのだった。

 アイヌと和人はそれまで、基本的には平和裏に付き合っていた。和人はアイヌから毛皮などの特産品を購入するかわりに、工具や武器、コメなどを与えていたのである。

 ところが、この殺人事件をきっかけに、双方の関係が怪しくなった。翌年、アイヌの首長コシャマイン(胡奢魔犬)に率いられた男たちが道南で蜂起する。コシャマインは、道南東部のアイヌを統率していた勇者だったようである。

 当初、アイヌの勢いはすさまじく、志濃里館をはじめ10の城館が次々と落ちてしまったという。信広が蝦夷地に入ったのは、ちょうどこのころだったのだ。新羅之記録によると、信広は上之国花沢館の館主、蠣崎季繁(かきざきすえしげ)の客将だったとある。

 ●軍功により蠣崎家を継ぐ

 函館市志海苔(しのり)町に、国の史跡に指定された「志苔館跡」という中世城館遺跡がある。コシャマイン蜂起のきっかけとなった志濃里館があったところで、約4100平方メートルが発掘調査され、土塁や井戸、掘立柱建物跡などが復元されている。この時代の本州にみられる山城とはタイプが違うが、激しい戦闘の行われたことを想像させる遺跡である。