日本の源流を訪ねて

貝島炭鉱露天掘り跡(宮若市)

貝島炭鉱の露天掘り跡。広大な敷地が炭鉱の規模を伝える
貝島炭鉱の露天掘り跡。広大な敷地が炭鉱の規模を伝える

 ■作業員らの面影そこはかとなく

 福岡県宮若市は、トヨタ自動車の主力生産拠点が立地する。だが、明治から昭和まで、この地といえば「貝島炭鉱」の名が、全国に知れ渡っていた。九州では珍しかった露天掘りの跡が、当時の繁栄を今に伝える。

 露天掘りは、坑道を作らず地表から直接、地下に向かって掘り進める。貝島炭鉱では坑道での採掘と合わせて採用され、産出量を伸ばした。宮若市石炭記念館によると、露天坑は複数あり、全体の規模は80ヘクタールにもなったという。

 貝島炭鉱の採掘は明治18(1885)年に始まった。創業者の貝島太助は一介の炭坑夫から身を起こし、麻生、安川と並んで「筑豊御三家」の一つに数えられる炭鉱経営者になった。

 「筑豊炭鉱では三井田川炭鉱に次ぐ大きさだった。学校のほか、病院、体育館といった福利厚生施設も充実していて、中国、四国地方からも作業員が稼ぎに訪れていた」

 石炭記念館の職員、平山雅敏さん(68)はこう説明する。平山さんの父も、従業員として働いていたという。

 戦後のピーク時には作業員は1万人近くにもなった。家族も含めると2万~3万人がこの地域に居住した。昭和51年の閉山までに、約1億トンを出炭したと記録される。

 閉山翌年、石炭記念館が開館した。

 貝島が建立した旧大之浦小学校の校舎を活用しており、実際に採炭に使われた道具のほか、貝島一族、炭鉱の様子を伝える写真を展示している。作業員が暮らした炭鉱住宅のジオラマは、子供が生き生きと遊んでいた様子も再現する。

 昨年7月、福岡県内の一部の炭鉱関連施設は、「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録された。

 だが、貝島炭鉱は閉山とともに関連施設がほとんど撤去されており、世界遺産決定に沸くことはなかった。

 すり鉢状の露天坑跡は、ほとんど埋められた。一部は池になっている。周辺には今は大規模太陽光発電所(メガソーラー)が広がる。

 景色が移り変わり、炭鉱の存在も風化していく。わずかに残る当時の景色が、日本の近代化に貢献した作業員らの面影を伝える。 (高瀬真由子) 

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